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プロ市民的スキームとマイノリティの態度 - あるいは拡散する政治

2009年03月03日

非正規雇用者や若者の問題が耳目を集めるようになったのは,赤木氏の論文がきっかけというよりは,秋葉原の例の事件が発端になっているんだと思う。で,なんだかここら辺の運動は,プロ市民も巻き込んで急速な変容を遂げているようなんだけれども,こうした動きは「戦略的に」まずいと思っていたりします。

で,こちらの話。プロ市民的なスキームに巻き込まれちゃあかんてば,と。

色々厳しいことを書いたけど、別に僕は若者や非正規雇用者に「絶望しろ!」なんてことを言うつもりはない。そんなのはid:umetenにでも任せておけば良いんであって、僕が言いたいことは次のようなこと。

  • 若者だけや非正規雇用だけの利益を代弁するようなことを言ってちゃ駄目。若者も老人も正規雇用も非正規雇用も、全体が幸せになれるビジョンを提示しなければならない。
若者"だけ"や非正規雇用"だけ"の利益を代表する声が政治に反映されない絶対的根拠 - 日常ごっこ

これはあたしの率直な実感だけれども,「全体が幸せになれるビジョン」なんてもんは存在しない。いや,もしかしたら存在するのかもしれないけれど,こゆもんは多数派が介在することで見えなくなってしまうのだと思う。「対話」なるもんは,どこまでいっても多数派から見たスキームなわけで,「対話の席に着く」ということが,少数派にとって決定的なハンディキャップを意味してしまう。

あたしゃ以前,「マイノリティはマジョリティに『見られては』いけない」とか,「マジョリティに見られたマイノリティは去勢されている」とか書いたことがあるんですけれど,言いたいことはそういうこと。結局,「全体が幸せになれるビジョン」なるものは,あるかもしれないけれど見ることができない。そして,見えないビジョンは,文字通りビジョンじゃない。

でもって思うのは,悲しいことに,多数派のスキームを介在させずに少数派の意見を事実上「代弁」したのが,秋葉原の事件だったということ。その評価はもちろん「悪いこと」なわけで,美化するつもりはまるでないのだけれども,「事実として」多数派に影響を及ぼしたのは,こうした生の行為だった,と……おそらく,こうした事実認識で正しいのだと思う。

繰り返すまでもなく,天原さんにいわゆる「対話」は,これまでのスキームとまるで変わらない「正攻法」なわけで,まるでごもっともな話だったりします。しかし,問題となっているのは,こうした正攻法から「降りてしまっている人」を相手にしていることなわけで,「利益の代弁」とかいった市民的な水準にいない人(市民的な扱いを受けられない人)の問題なんだと思う。

参考までに。

勝ち組と負け組の間には,根本的にコミュニケーションの断絶があります。それは「聞けるものを聞かない」という「態度」の水準における断絶ではなく,もっと原始的な意味での断絶です。つまり,「言っていることが(ほとんど物理的に)理解できない」という水準。そうした人からすると,死刑の是非や,なぜころ問答がいくら熱心に議論されていても,根本的に安全な(だと思い込んでいる)人間の与太話にしか聞こえない。なぜなら,なぜころ問答にいわゆる「人」は,社会的市民を指しているし,死刑も社会的市民の水準で意味づけられた「社会の」作用だからです。

qune: 勝ち組のお作法は無視することであり(アンチ)ヒューマニズムを標榜することではないという話

念のために言っておくと,あたしゃテロやら通り魔やらを推奨しているわけでは決してありません。しかし,だからといって,消去法で「正攻法」を取ったら負けるに決まっている。マイノリティには,マイノリティなりの意見の伝え方があると思うんですね。横着してプロ市民にすがりつくようなことはしないで,頭を使って個人のレベルで戦略を練るしかないと思うわけです。つまり,政治は拡散させるべきなんだと思う,と。

「対話」をする元気のある人は,ご自由にどうぞ,といったところなんだけれども,こゆのはある意味ファッションでもあるから,飽きない程度にするのがいいんでねいかな,とも。

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