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批判と当事者

2009年04月26日

今週の SPA! を立ち読みしていたところ,「[モンスター社長]の暴走を止めろ!」なる特集で,某アルファギーク氏がコメントを寄せていました。立ち読みだったから引用できないけれども,社長が語る系の書籍について,大体こんな様なことを言っていた。

検証不能な実績をもとにして語る社長はバカ。

しかし,社長になったこともない人がそのバカを語るのは,バカ社長よりもバカなこと。

どうしてバカになったのかを検証することで,バカ社長に対応する力がつく。

アルファ氏が指摘する最初の部分については,その通りだと思うのだけれども,2番目については「あー……こういうところに『線』を引いたか」と思ってしまいました。

日本の株式会社制度は,八百八商店株式会社(小規模閉鎖会社のこと。商事法界隈の俗語でたまにこう呼ぶ)を広く認めているから,「社長」(代表取締役)なんつのは思っているよりたくさんいる。しかし,そゆ「たくさん」はあくまでも割合の話であって,頭数にしたら社長はあまりいないはずです。「こういうところに『線』を引いたか」というのは,つまり,「社長のバカ」を語りうる人を,大した理由もなく狭めているということ。なんだか変な「線」だなあ,と思う。

端的に言って,どこの誰が見ても「バカ」としか呼べないような社長っつのはたくさんいる。そして,バカな社長が語る書籍なんつのは,サブカル的に消費することはできても,経営本としてはまったく役に立たないだろう。このことは,他の社長にとってはもちろん,社長を目指している一般社員にとってもあてはまる。この点,消費者の書籍選びにおける要件には,「社長がバカでないこと」という要件があるわけで,単純に「バカ」に用はなかったりします。つまり,社長でなくても,「社長のバカ」を語るメリットはあるし,それは社長だからこそできることというわけでもない,と思うわけ。

こういう「線引き」は,やり方としてどうなんだろうと思う。

あるお題に対する批評や批判をかわす方法として,ある意味究極の攻撃防禦方法があります。それは,相手の当事者能力を剥奪すること。つまり,「お前はこのお題を語る資格がない」と宣言することです。その宣言が妥当か否かを問わず,この種の宣言は,それ自体メタ議論になるわけで,問題の所在が元のそれから外れてしまう。

もちろん,こゆ話はあちこちにあるわけで,例えばこんなのがある。

  • アル中になったこともないやつが,アル中の処遇を語るな。
  • 非正規労働者の気持ちを正規労働者が分かるはずがない。

逆に,こういう宣言もありうる。

  • SE 歴25年のA氏が語る仕事術。
  • 交通事故で子供を失ったからこそ言える,日本の交通行政。

もちろん,ある種の地位(立場,経験)を持っているからこそ,その話に信用性が生まれるということもあるのだと思います。しかしこの地位は,根本的なところから「語りうる人」を狭める原理にはならない。このテクが使われた時点で,あー……と思ってしまう。

一方,少し話が外れるけれども,議論の当事者性について,ついでにこれを意識しなくちゃいけない場合についても考えてみます。

それは,少し前に finalvent さんが「国家と結託した市民」の話をなさっていたことに収斂されるのだと思う(参照:フーコーの権力論というか - finalventの日記)。「議論の当事者性」を問題にする場合というのは,こゆことなんだと思う。つまり,当該議論に対して,どんな条件よりも先回りして束縛しうる権力的な条件のこと。または,何かを語る限り,ほとんど必然的に権力の欲望と接続してしまう(してしまっている)関係の絶対性のこと。

最初の話と無理矢理結びつけるとすると,この当事者性は,むしろ必然であって議論の定義そのものとも(残念なことながら)言えると思うわけで,前者のように皮相で恣意的に設定された条件とは,根本的に次元が異なるのだと思います。そして,後者は,それが必然であるからこそ「解放されること」を志向するのに対して,前者はむしろ「語りうる資格」としてムラ的に「組み込まれること」を志向しているわけで,その点でも両者は決定的に異なります。

ま,無理矢理結びつけるもんでもないと思うんですが。なんつか,変な線引きやめね?とか思う。

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