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規格化された文言について

2009年05月04日

巷のブログを読んでいると,日本語としては不自然なんだけれど規格化されてるからまぁいいか,な文言に出会うことがあります。例えば,「気づき力」みたいな。「きづきりょく」と読むんだろうか。

「気づき」というのは,動詞「気づく」を連用形にして名詞化したもので,こゆ用法はある。「踏ん張る」を名詞化すると「踏ん張り」になるし,「彼は読みが深い」という時の「読み」は,動詞「読む」を連用形で名詞化したもの。しかし,これに「力」を付けられる場合っつのは,限られるんじゃないだろうか。

文法書の類を調べてないから,よく知らないんですけれど,「力」をつけられる場合ってのは,一般にどういう場合なんだろう。例えば,「学習力」や「読解力」という言葉は聞く。学習する力と読解する力のことなんでしょうね,普通は。「生産力」なんてのも,学術用語(経済学)にもなっているから,用法としてはアリなんだろう。

思うんですけど,「力」をつけられる場合ってのは,漢語系の熟語に限られるんじゃないだろうか。具体的には,「する」を付けて動詞化できるような熟語です。例えば,「学習-力」をそれっぽく書き下すと,「学習する力」(がくしゅうするちから)となるはず。こうやって書き下してみて自然な場合に,音読みされて「学習力」になる,と。

そう考えると,やはり「気づき-力」はおかしい。書き下して「気づきする力」とは,普通の日本語では言わないからです。

で,冒頭の「規格化されてるからまぁいいか」なんですけれど,こゆ場合の日本語としての「正しさ」つのは,上でごにょごにょ述べたような話とは,別の理屈から正当化されたりされなかったりするのだと思うんです。規格化された用法として,形式的にイメージできるかといったところに,「正しさ」の根拠があるんだと思う。

つまり,「気づき-力」の場合,「気づくために必要な力」という概念がなんとなくイメージできれば,それだけで「正しい」ということになるんじゃないだろうか。「-力」という続け方において,「熟語を形作る」という機能は,軽視ないし無視されることになる。ということは反対に,「『-力』と続けるには,熟語を形作れなければならない」という要件からは解放されているわけで,ぶっちゃけると,「-力」をつなげると,なんでも「なにかをする力」という意味合いの言葉として大量生産できる,ということにもなる。こうした,形式的に言葉を連結・変化させることでもって,言葉を再生産する仕組みを,ここでは「規格化された言葉」と呼んでみました。

一方,言葉が形式的に加工され生産されるということは,その実質が言葉の内容とは別の場所にあることも示しているのだとも思います。『気づき力』という本があるとしたら,その実質は「気づき力」という言葉の中にはなくて,その本の内容にあるはず。ない場合がほとんどなんですが。

こういった規格化された言葉は,「気づき力」の他にも,「日本語力」なんてのがある。あたしの基準からすると,普通「日本語する力」とは書き下せないから,伝統的な用法としては間違っているのだと思う。しかし,形式的に生産された言葉としては,日本語を扱う力をなんとなくイメージできるから正しい。

また,形式的に規格化された言葉は,内容以前に記号として機能しているところもあるのだと思う。ファーストフード店で,客が「お持帰りで」というのに違和感を覚える人は少なくないと思うけれど,これも,「持って帰りますよ」という意思を伝えているのではなくて,「オモチカエリ」という,形式的なプロパティ(記号)を設定したかのような位置づけなのだろう。適当な想像だけれど,あながち間違ってないんじゃないだろうか。

形式的な言葉は,マーケティング用語やコンサル用語に多い感じ。いくらでも作れる便利な言葉。

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