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「○○と言われてもしかたない」は本当に「しかたない」のかの話

2009年05月12日

マスメディアでもネットでもよく見る言い回しで,「○○ということは××と言われてもしかたない」てのがあります。「思われてもしかたない」でもいい。ほんとよく流行ってるので,出処を知りたいんですけれど,これ,筆者が文責を放棄しているように思えてしまう。

例えば,今日の読売1面(朝刊)では,こんな使い方がありました。

西松建設の政治献金をめぐり小沢氏の秘書が起訴された事件は、決して形式犯ではない。企業と無関係に見える政治団体を、結果的に“隠れ蓑(みの)”にして献金の実態が隠されていたのだから、国民の目を欺く行為と言われても仕方がない。

政策本位の政治で選挙戦に臨め : 混迷民主 : 特集 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

もちろん,内省の一環で自分に対して「○○と言われても仕方ないよな」というのは,普通にあるのだと思います。というのも,ここで「言う」人は,内省する人にとっての他者なわけで,「自分以外の誰か」といった具合に特定されているからです。しかし,人を名指して,「○○と言われても仕方ない」と言うときの,「言う」人は誰なんでしょう。筆者が言っているとは明言していないし,名指された人が自分で言っていることでもない。

ま,周りくどく話しているけれども,こゆ言い回しは要するに,上の例で言うと,次のようなニュアンスを出したいからなんだろう,と。

わたくし読売新聞の言い分はともかく,小沢氏の行為を「国民の目を欺く行為」と言う人がいたら,それを消極的に支持しますよ。

もちろん,これはかなり善意に読んだ場合で,本音はこう読むべきなんだと思う。

わたくし読売新聞は,小沢氏の行為を「国民の目を欺く行為」だと思う。しかし,それをおおっぴらに発言したら,いろいろとシコリが残るし,他にもいろいろ言われるから,誰か他の人が言ってることにしちゃえ。

文責放棄というのはそゆこと。主体性がない。

また,「○○と言われてもしかたない」は,論理関係をあやふやにするテクニックとして使われているようにも思います。例えば,ぐぐって見つけた例では,こんな感じで使われている。

  • 自衛隊をイラクに派遣して軍事費を上げ、リストラや増税で失業者や貧困層を増やすのでは、破壊と言われてもしかたない
  • ふだんどんなに立派なことを言っていても,こういう場面で心無い失言をする人は,弱者の立場を本当は考えようとしていない人物だと言われてもしかたないと思う
  • 中国の人権弾圧を語らない政治家は不勉強と言われてもしかたない
  • 昔に資金援助してもらって、今あれだけ大スターになったなら、交流が無いというのは血も涙も無いと言われてもしかたないと思う

それぞれの「しかたない」なんですけれど,これ,ちゃんと前を承けてるんでしょうか。少なくとも,個人的には「なぜそれでしかたないのか?」と思うところがある。前を承けてるように見せかけて,それとは無関係の自分が思っていることを言い放ってるだけのように見える。しかも,他人名義で。

あたしの場合,こゆ言い回しがあったら,「善意に読む」とか「論理性を検証する」とかいったしち面倒なことはしないで,無条件に文責放棄の文章とみなすことにしています。脳みそに供給するブドウ糖がもったいないから。そう言われても,しかたないでしょ?

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