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「なぜ分類するのか」という視点について自覚的な人とそうでないない人がいるという分類

2009年05月22日

学生時分,20代の前半あたりになると,多かれ少なかれ,人は「世の中をあれこれ分類したい」という病気にかかります。病気といってアレなら,そういう心性に傾きがちになる,と言ってもいいです。今になって思うことだけれども,これって,そこから抜け出すことができるかが,後々,いろいろな違いとして現れるんじゃないだろうか。

分類というのは,例えば,世の中には勝ち組と負け組がいる,とか,世の中には自分を見つけた人(実在するかは知らないが)と自分を探している最中の人がいる,とか,世の中にはモテと非モテがいるとかいった具合。草食系がどうとかとかいうのも,その類か。

ここで,「分類の内容」については,ものの見方ですから,本当でも嘘でもどっちでも良かったりします。草食系とか,いるかもしれないし,いないかもしれない。ここら辺は,いてもいなくてもどうでもいんです。問題なのは,その分類を誰がどうしてしているのか,という視点なんだと思う。

念のために言っとくと,この視点は,分類そのものの「恣意性」を問題にしているのではありません。分類の妥当性(恣意性=不当性)なんつのは,どうとでも言えるからどうでもいい。そうではなくて,その人なり組織が,当該分類を行った背景なり意図がどのようなものかを探る視点が重要だと思うわけです。なぜなら,こうした分類の意図そのものが,権力の欲望と大きく重なるから。人は,権力に対しては敏感になっていなくてはいけないと思う。

学術上の言説であれ世俗の噂であれ,「分類すること」に共通する性質があります。それは,「すべてを語りつくすことで得られる全能感」。例えば,「すべての人間は勝ち組か負け組である」という命題には,おそらくあれば大部分が該当するであろう「引き分け組」の存在を許さない。必ず,勝ちか負けのどちらかに分類されます。そして,この「分類を行うこと」は,「∀」を持ち出すことから得られる全能感と直接結びつく。これは,おそらく権力が持ち出す「∀」と同じものなのだと思う。

しかし,こうした「分類」には,必ず裏に意図がある。というのも,本来「∀」を語れない(語れるような分際にない)有限な人間が語る「∀」は,根源的にニセモノだから。つまり,それをホンモノらしく仕立て上げるには意図が必要だと思うからです。

したがって,権力は,このニセモノの「∀」をホンモノらしく見せるべく,その意図を隠さなければならない。で,その手法のひとつとして,「分類」という手法があると思うわけです。意図的に設定された「∀」を所与の条件として受け取らせる手法です。「その分類を誰がどうしてしているのか」という視点は,つまるところ,権力の欲望を見定める視点と言ってもいい気がします。

一方,若い頃の病気は,おそらく世界(観)をつかみあぐねている時に出るのだと思います。「∀」は,とにもかくにも心の拠り所になる。そゆもんを見た上で,諦観するなり,うまい具合に茶化すなりすることができるようになると,もちっと生きやすくなるんじゃないか,と思ったりもします。

最後に,この文章自体も「分類」していることも忘れないよーに,みたいな。

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