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中立という立場について

2009年05月28日

やや大漁のこちらの話から。

はてブのコメントで客観ぶって「判断は保留」とか言ってるやつが一番チキンで最悪。はてブみたいにあれだけ個人が保護された環境下においても自分の中にまともな判断基準を持てないような輩は普通にポピュリズムに突き動かされて差別とかヘイトスピーチとか何なら虐殺とか平気で荷担しそうな感じ。

Twitter / 津田大介: はてブのコメントで客観ぶって「判断は保留」とか言って ...

「判断は保留」の人は,エンタメとして見たときにエントロピーが低いから,ネット上では生存確認くらいの意味しかないと思っていたりはする。「あー……いるのね」くらい。で,本人もそれくらいの存在感で満足しているんだろうから,それはそれでいいんじゃないかとも思う。

一方,こゆ人達が政治的に動員されやすいのかというと,実証的には分からないのだけれども,事実上,「判断保留」が多数決の多数派に組み込まれる仕組みになっているのだとは思います。というのも,特に多数決の場合,「判断保留」は,単純に多数決に参加しないことを意味するわけではなくて,「反対ではない=賛成」という立ち位置に分類されるから。その証拠に,選挙は「有効投票数」の中から多数派が選出されるし,大抵の議会原則でも,「出席者」の中の多数派が議会の意思になる。

つまり,中立ないし判断保留は,多数派の意見に賛成するわけではないが,そこから出てくる結論ないし結果については,利益も不利益(リスク)も引き受ける,という意思表示に他ならないのではないだろうか,とかとか。

また,これをもすこし進めると,判断保留をした人は,少なくとも議論の道義上,後になって多数派の結論ないし結果に対して,異議を唱える資格にないと言ってもいいような気もします。極論すれば,小泉選挙のときに賛成した連中が,成果主義・実力主義の下でリストラされても,当該政権に対して何も言えないのと同様に,何も言わなかった(選挙に参加しなかった)連中もクビになっても何も言えないはず……とか言ってみるテスト。

もっともこれは,「文化=制度としてそう」という話なので,動員されやすい云々にしても,言論の環境がそういう仕組みになってるからってだけのような気もする。ネット上では,賛成と反対にきれいに分かれる議論だけがあるわけじゃないから,判断保留にもそれなりの立ち位置にはなるんだとも思う。しかし,何かしらのきっかけで議論に決着が付いたとき,「判断保留」は,社会文化的に決着が付いたその結論に組み込まれうる。それは,やんちゃやってるネットの右左の人達を動員するときのように,有り余るエネルギーを利用するような動員方法ではなくて,言論の環境が事実=制度として自動的に認める多数派なのだと思います。そういう意味では,誰かの陰謀(!)によって動員されるのとはちと違う感じ。

いずれにしても,(判断保留にもかかわらず)そうしたリスクを負うのが嫌なのだとしたら,積極的に何らかしらの主張をすべきなんじゃないだろうか。なんか古臭い考えの気もするけれど,じじいとしてはそう思う。

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