Entry

死刑を持つ日本の刑事法制に足りないのは国家が人を殺すことの生々しさだと思う

2009年06月07日

読売がはっちゃけてるみたいなので少し。

明治以来、日本の死刑制度は「絞首」という形で存在し続けてきた。

命による償いは、社会に何をもたらしているのか。これからも必要なのか。連載の締めくくりとなる第4部では、海外の実情も報告しながら、死刑の意味を考えたい。

闇サイト殺人「極刑を」32万人署名…連載「死刑」第4部 : 社会 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

死刑は人を国家的・合法的に殺す刑罰であることは間違いがない。で,署名した人は,死刑が違法なものか合法なものかは別として,国家機関が人を殺すことに対して同意し支持し参与したことにも違いはありません。この点,あたしゃ基本的に死刑はなくした方がいいと思っているけれども,ここで署名した人については,法的にも道義的にも非難するつもりはありません。ま,制度があるなら使うだろう,と。

しかし,日本の死刑制度そのものを考える場合,根本的な問題として欠けているのは,「人を殺すこと」の持つ社会的意味としての生々しさなのだと思う。これは,典型的には,死刑のことを「極刑」とかいった婉曲表現で言い表すことから始まります。「国家機関が人を殺すこと」に対して一定の距離を保ちつつ,システマティックな意味づけがなされているのではないだろうか。署名した人は,(たとえ合法的であれ)その手が血で汚れることに対して,切迫した生々しさを感じたのだろうか。この生々しさこそが,死刑制度がもたらす唯一にして最大の効果なのだと思います。

死刑制度において,生き残る国民が得る唯一のモノは,社会の安全でも不安の解消でもない(それだったら終身刑で足りる)。それが応報的な目的であれ,社会防衛的(一般予防的)な目的であれ,死刑から得られる唯一の効果は,「人の死」がもたらすこの生々しさなのだと思う。

その意味で,あたしは以下のようにシステマティックで定量的に換算できる死刑のあり方については,かなりの疑問を覚えていたりします。

一人でも殺したら死刑、というように考えたくはない。でも更生の可能性がないような人はどうすればいいのか。命が大切だからこそ、感情論ではなく、社会のために危険の芽を摘む意味で、私が死刑を求めてもいいのではないか――。

闇サイト殺人「極刑を」32万人署名…連載「死刑」第4部 : 社会 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

人を殺すことは,感情の作用に基づいていなければならない。「更生の可能性」のような,数字で換算できるような基準に基づいていてはならないのだと思います。もちろん,判決文には理知的な文言が並ぶはずです。しかし,それは結果であって原因であってはならない。そうでなければ,国家なるもんは,国家システムの自己目的的な作用として死刑を位置づけることになるでしょう。人の営みのない,国家というシステムだけが残ることになる。

もちろん,日本の刑事法体系は,定型的で定量的な判断を良しとしていて,それはあたしも耳タコだったりします。しかし,それはあくまでも事実認定・法律解釈の段階に当てはまること。量刑上の側面,特に死刑の判断においてまでシステマティックなアプローチを採るべきではないと思っていたりします。

個人的には,裁判員制度なんつもんよりも,死刑執行官を民間から募った方が,よほど実践的な刑事司法参加になるんじゃないかと思ったりします。特別な知識は要りません。絞首のボタンを押すだけです(ボタンがあるのか知らないけど簡単な手続きのはず)。抽象的な「社会」なる概念から離れた,具体的なその生々しさは,国家システムを人間の手に取り戻す大きな鍵になるんじゃないかとも思ったりして。

Trackback
Trackback URL:
Ads
About
Search This Site
Ads
Categories
Recent Entries
Log Archive
Syndicate This Site
Info.
クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
Movable Type 3.36
Valid XHTML 1.1!
Valid CSS!
ブログタイムズ

© 2003-2012 AIAN