Entry

命がけの飛躍と決断するということ

2009年07月12日

先日『探究I』を読んだんですけれど,『法の力』と読み合わせて読んだ方がよさそうだったので,ちと読み直してます。

法の力 (叢書・ウニベルシタス)
ジャック デリダ
法政大学出版局
売り上げランキング: 285946
おすすめ度の平均: 4.0
3 デリダの言う「正義」にはどうも納得できない・・・
5 法/権力への思索

他者に対する無限の応答責任(respons-ibility)を前にして宙吊りになるということ(決定不可能な状況に置かれるということ),そしてそこから「決断」すること。これは,『探究I』(ひいてはマルクス)における「命がけの飛躍」ということなのだと思う。単純にイコールで結びつけていいのだろうか。

関連する箇所を少し長いけれど挙げておきます。

決断可能性というテーマは、脱構築と結びつけて考えられることが多い。ところで決断不可能なものとは、二つの意味作用の間で揺れ動くこと、あるいは二つの相矛盾しかつ十分に規定された規則が同じように至上命令であるところから、この両規則の間で揺れ動くこと(今述べていることとの関連でその例を挙げると、普遍的な法/権利や公平に尊敬を捧げながら、同時にまた、包摂することの不可能な事例のもつ常に異質的で唯一無比の特異性にも敬意を払うこと)、であるばかりではない。〔snip〕決断不可能であるのは、次のものの経験である。すなわち、計算可能なものや規則の次元にはなじまず、それとは異質でありながらも、法/権利や規則を考慮に入れながら不可能な決断へとおのれを没頭させねばならない(doit)もの〔snip〕の経験である。

〔snip〕

あらゆる決断は、すなわちあらゆる決断という出来事は、自らのうちに、決断不可能なものを少なくとも幽霊(ファントム)として、しかしながら自らの本質をなす幽霊として受け入れ、住まわせつづける。決断不可能なものの幽霊的性質は、現にそこにあることを保障するものをことごとく、内部に巣くって脱構築する。現にそこにあることを保障するものとはつまり、確実性またはいわゆる基準論であり、それらによってわれわれは決断の正義を保障されるのだが、実を言えば決断の正義とはつまり、決断という出来事そのものである。

『法の力』(ジャック・デリダ,法政大学出版局,1999年,pp59-62)

デリダの言い回しは分かりづらいんだけれども,法学(特に法哲)のプロパーで話されていることから,個人的にはまだ分かりやすかったりします。

いきなり卑近な例になるけれども,あたしゃ大学2年生のとき,民法のゼミに入ってたんですね。で,ゼミの初日,先生がこんなことを言っていたのを思い出します。

君たちは仙人じゃないから,カスミを食って生きていくことはできないんですね。現実の法的紛争を前にしてご飯を食べていかなくちゃいけない。そして,現実の法的紛争は,教科書に書かれている典型的なケースがそのまま出てくるようなことはありえない。君たちが学ぶのは,具体的な紛争を前にした時にそれを解決するための,法律的な考え方だと言ってもいい。

具体的には,ある法律的な判断をする場合に,その判断によって最も不利益を受ける人(典型的には敗訴者)を納得させるだけの理屈を考えられる力をつける,ということなんですね。

民法の解釈論では,たまに「Aさんに酷だから○○と解釈すべき」みたいな文句が出てくるんですけれど,その先生はこの言い回しが嫌いで,こうしたお説教になったのでした(今でも覚えている)。「酷だから」というのは,要するに「かわいそうだから」ということなんだけれども,「かわいそうで済めば法律はいらねぇ」とか云々。

もちろん,法律には権力の裏付けがあるわけで,法律的な判断ってのは権力的な判断だったりします。しかし,権力そのものの正当性は権力そのものによって担保されるわけじゃない。つまり,法解釈は権力を裏付けにしてはいけないわけで,他の何かしらの根拠が必要だということです。そんなことを前提にしてその先生は,法解釈論において「不利益を受ける者を納得させること」が必要といった要件を挙げたのでした。

もちろん,この敗訴者は決して「物分りのいい敗訴者」を想定すべきではなくて,考えうる限り最強の敗訴者を想定しなくてはいけません。そしてこの決断は,必然的にアポリアにつながる。引用で言うなら,後者の方か。この時点における決断は,法なるものが有効でいられる領域と無効になる領域の境界線(限界)におけるそれなわけで,無根拠な「命がけの飛躍」になるはずです。

もうひとつのアポリア。

それは,引用中,法/権利を平等(公平)に適用すべきとする原則に対して,個別具体的な紛争の事情も考慮に入れなければいけないという矛盾した出来事にまつわる経験です。

このアポリアは,実定法の解釈論でもよく問題になるところで,「法的安定性」と「具体的妥当性」の対立構造として取り上げられることがあります。ま,そゆ難儀なところもある,と。

結局のところ,法の限界を見つめつつ「決断する」ということ,そのこと自体に正義があるとか云々。本書をことさら意識していたわけじゃないけれども,このサイトでも似たようなことを書いていたのでした。

「社会性を身に付ける」ってのには,文字通り社会との接点をどう作っていくかとかいった,テクニカルで対外的な意味があるのはもちろんですけれど,それとは別に,「自分にできて周りにできないこと」や「周りにできて自分にできないこと」の見極めをつけるといった対内的な意味があるんだと思います。で,見極めをつけるってのは,ある意味,自分のある可能性に見切りを付けることでもあるわけで,そこら辺が「去勢」と象徴付けられるもんじゃないのかなぁ……と,つらつら(と,本文で言っているところでもあるんですけれど)。

qune: 読書メモ - 去勢とあきらめ

これはあたしの話になっちゃうんですけれど,ある分野について,本を読むなり人の話を聞くなりしていると,ある種の万能感を得ることができます。「この話で全ての事象を説明できるぜ!」みたいな感じの全能感です。ただ,その後しばらくすると,その分野が取りこぼしていることや,あえて「見ないこと」にしているアレコレが目に付くようになってきます。法律は万能に見えるけれど,こういう問題は扱えないとか,経済学はすごいけれどコレはちょっと違うんじゃない?とか,そんな具合。

つまり,そこには,ある種の諦めがあるわけです。万能じゃねーじゃん,みたいな。

qune: 読書メモ - 真理などは馬に食わせてしまえ

この点,某経済学系あるふぁぶろがさんの話を見ていると,なんつか,「カスミ食って生きてるなー」な感じがしたりする。「そんなことは学部の初学年でも学ぶことだ」みたいな説教は,独話っぷりも甚だしい。そゆ人に限ってデリダを挙げたりするもんだから,なんだかなぁ,と。

Trackback
Trackback URL:
Ads
About
Search This Site
Ads
Categories
Recent Entries
Log Archive
Syndicate This Site
Info.
クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
Movable Type 3.36
Valid XHTML 1.1!
Valid CSS!
ブログタイムズ

© 2003-2012 AIAN