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哲学科を選ばなかったときのこと

2009年07月16日

もう随分昔,大学受験が終わって進路が決まった後,ひどく落ち込んでいたことを,不意に思い出しました。この時落ち込んでいた理由は明らかで,この期に及んで,決まった進路に迷いがあったから。

あたしゃ受験生の頃,人文系の学科に進もうと思っていて,そのために勉強していたんですけれど,結局法学部に進んだのでした。法学部を受験したのは,今の出身学部ともう一校だけ。行きたい学校の文学部にも合格していたので,あとはあたしの選択次第だったのでした。

じゃ,なぜ法学部に進んだのか。これはいまだに答えが出てません。衝動買いみたいなもんだったんだと思う。後になっていろいろとこじつけることはできて,例えば「ツブシが利くから」なんて理由も挙げられる。けど,それが本当の理由かというと,そうなんだろうか,とも思う。

で,そんなこんなで悶々としてた折,1年先に大学に行っていた友人と会うことがあったのでした(あたしゃ浪人してた)。彼も人文系に進むことを考えていたんだけれども,結局教育学部に進んだもんで,どんな感じで折り合いを付けたのか,尋ねたのでした。すると,

まあー……「哲学を学ぶこと」と「哲学すること」は違うからね。今いる学部でも,「哲学すること」はできるから,満足しているよ。

との返答。うわあ,と思ってしまった。こいつオトナになっとる!というか。

結局,当時自分が哲学に求めていたのは,偉い哲学者さんの偉さ加減を,情報として知ることではなくて,自分がどのように世界を見つめ,どのように他者と関わり,どのような態度で生きていくのか,といった問いに対する答えだったのだと思う。哲学科がその問いに対する答えなりヒントなりを用意している,ある種の救いに見えていたんじゃないだろうか,とか云々。

友人が言っていった「哲学すること」というのは,そういうことなのだと思います。今考えなおすと。

しかし,今哲学書と言われるものを読んでいて,さらに何度も読み返していると,彼ら自身,何かしらの「救い」を求めるかのように思考していることが分かる(それが実存であれ)。例えば,カントが「物自体」と言うとき,「カントが物自体と言った」ってな客観的な事実については,「哲学する」上では大したことではないのだと思う。「哲学する」上で必要なのは,カントが物自体と言わなければいけなかった状況なり境遇を,どれだけ自分の生に取り込むことができるのか,といったことじゃないだろうか。

この「取り込む」ということについて,例えば,デリダは,ガダマーとの内的対話を引いて「無限の対話」と言っている。

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4 未生、死後の精神生成則
2 晩年のデリダの念仏

そして,あたしゃ思うんですけれど,この対話は必ず分裂病的な逡巡を要請する(※敢えて分裂病と言う)。疑問系の結びや多くの確固書き,それに注釈を要請する。他者を前にせず,したがって逡巡のない言明は,ただの情報でしかないわけで,それ以上の価値を持っていないんじゃないだろうか,とか云々。さらに言うと,こうした逡巡を伴わない断定的な言説に対しては,非常にいぶかしさを感じてしまう。迷いがないというのはいいことでもあるんだろうけれど,ま,言ってみれば「単純バカ」に見えてしまう。逡巡することがそれほど高邁な出来事かというと,そゆわけではないとも思うんだけど。

今になって,あたし個人としては,哲学科に進まなかったことについて,ある意味納得しているところはあったりします。しかし,自分が書く哲学ジミタ話や稚拙な発想については,本業の方に対して気後れするところがあったりする。なんだかなぁ。

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