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あまり読んでもらえてないんだけれど個人的に傑作だと思ってるエントリ

2009年07月27日

このサイトを運営するのも6年目ということもあって,それなりにエントリも溜まってるんですけれど,個人的に傑作だと思っているエントリが,人に読まれないまま埋もれてるのはちと悲しいので,掘り上げておきます。

その意味で言うと,なぜころ問答に対する「答え」というのは,イデオロギッシュにならざるを得ません。もちろん,言葉を連ねることで,禁止する主体の輪郭をなぞることはできそうです。けれど,結局のところ,それは規範なり社会なり宗教なりといったものを同語反復するだけで,ひっくるめると「だめだからだめ」になってしまう。ドーナッツの周りをなぞるように,穴の空いた核心の周りをグルグルと回るだけなんじゃないでしょうか。んでもって,ドーナッツの穴は人間の住むところじゃありませんから(穴に入ると外部がなくなってしまう),穴なんかあってもなくても,人間にとっては「どうでもいい」。あたしゃ最近そんな風に思ってるんですね。

qune: なぜころ問答を少し考える

多分,「真理」とか「正義」とかいった「よく分からないモノ」とそれを取り巻く人間の関係をドーナッツに喩えるようになったのは,このエントリからだと思います。我ながら上手い喩えだと,今でも思う。

その「よく分からないモノ」は,あるかもしれないし,ないかもしれない。つまり,(少なくともあたしからすると)あってもなくてもどうでもいい。そゆ状況の中で,私は他者とどのように関わるの?柄谷風に言うなら,「私にとっての『真理』『正義』が通じない相手」とどのように関わるの?どのように折り合いを付けていくの?(「折り合い」という言葉もよく使う言葉だな,そういえば)。それは,どれだけ対話の相手を尊重しながら,その「関係」に(妥協でも止揚でもなく)私を位置づけることができるのか,という話だとも言えるんじゃないだろうか。

おそらく,あたしにとっての「折り合い」ってのは実践的な倫理であって,「このような折り合い方が正しい」とかいった命題が定立される類のものではないのだと思っていたりします。なぜなら,そうしたものが定立されるとしたら,それこそ中心のないドーナッツと同じ構造を作り出してしまうから。それはそのときその場で生じる正義であって,二度と同じものがやってくることのない類の真理であり約束なのだと思う。あたしがデリダに惹かれるのも,その点なんだと思う。

数年ブログを書いていて,言ってることといったら,それっくらいのことだけなんですけどね。

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