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今日読み直した本 - 『夜と霧』

2009年07月30日

先日本棚を買ったので,本を整理しているんですけれど,浪人生のときに読んでた本が見つかったので,懐かしく読み直しました。最近は新訳で池田香代子訳が出版されているんですけれど,あたしの手元にあるのは霜山徳爾訳(昭和36年第6刷)で,おそらくこちらの訳を読んでる方が多いと思うので,霜山訳を紹介しておきます。

夜と霧―ドイツ強制収容所の体験記録
V.E.フランクル
みすず書房
売り上げランキング: 4343
おすすめ度の平均: 4.5
5 解説と本文は別物
5 学びの示唆に富んでいる
5 全員が読むべき本。
1 「ガスかまど」とは何か???−−私が「ガス室」の実在を疑ふ理由の一端
5 どのようにしてアウシュヴィッツを生き残ることができたのか?

どうでもいいんだけれども,この本の Amazon レビューで,アウシュビッツはなかった云々とかいったレビューを書いてる人がいるんだけれども,こういった既定のスキームに乗ってしか物事を考えられない心性は,見ていてかわいそうになってしまう。それこそ,本書のお題の真逆を行ってるわけで,「ちゃんと読めよ」と。ほんとにどうでもいいんだけど。

ともあれ,あたしの手元にあるこの本は,親から譲り受けたもので,割と思い入れがあったりします。大学受験に失敗した時,ロクに勉強もしなかったくせに,落ち込みっぷりだけは一人前だったもんで,見かねた父が「これ読んで頭を冷やせ」とか言って渡してくれたのでした。で,実際,この本でやる気を取り戻したと言っても過言ではなかったりします。父親は本書がかなり好きなようで,ゼミでも(←臨床心理学の先生やってる)学生さんに読ませてるんだとか。

今どうしても抜け出せない苦悩や苦難を抱えている方は,是非一読してもらいたい。自分探しが止まらない方にも読んでもらいたい。

本書のあらましをざっくりと説明すると,アウシュビッツ(ナチスの強制収容所)に収監されていた筆者が,その中で起きていた出来事を心理学者の視点から記録したものです。筆者であるフランクルはフロイド,アドラーに師事して精神医学を学んだお医者さんです。

アウシュビッツというと,歴史上の事実を記述した書物はいくつもあって,もちろんそういった側面から本書を読むこともできます。しかし,本書の読みどころは,むしろそうした単なる事実の叙述ではなく,私的な経験と学的な分析を通じて行った,人間分析だと言っていいんだと思います。いつ死ぬか分からないような限界の状態で,人はどのように生きる希望を見出すのか。

この点について,やはり今読んでも大切だと思う箇所を,少し長いけれども紹介しておきます。

一体与えられた環境条件に対する態度の精神的自由、行動の精神的自由は存しないのだろうか?自然主義的な世界観や人生観が、人間は生物学的であれ、心理学的であれ、社会学的であれ、多様な規定性や条件の産物に他ならないとわれわれに信ぜさせようとすることは、真実なのであろうか?人間は従ってその身体的性質、その性格学的素質及びその社会的状況の偶然な結果に他ならないのだろうか。

(snip)

この問題にわれわれは経験的にも理論的にも答えることができる。経験的には収容所生活はわれわれに、人間はきわめてよく「他のようにもでき得る」ということを示した。人が感情の鈍磨を克服し刺戟性を抑圧し得ること、また精神的自由、すなわち環境への自我の自由な態度は、この一見絶対的な強制状態の下においても、外的にも内的にも存し続けたということを示す英雄的な実例は少くないのである。

(snip)

あれこれの態度をとることができる」ということは存するのであり、収容所内の毎日毎時がこの内的な決断を行う数千の機会を与えたのであった。その内的決断とは、人間からその最も固有なもの――内的自由――を奪い、自由と尊厳を放棄させて外的条件の単なる玩弄物とし、「典型的な」収容所囚人に鋳直そうとする環境の力に陥るか陥らないか、という決断なのである。

『夜と霧―ドイツ強制収容所の体験記録』(V.E.フランクル,霜山徳爾訳,みすず書房,1961年,pp166-168)

外的な環境・条件がどれほど苛烈であるとしても,人間の「内的自由」は「あれこれの態度をとることができる」といった形で存在する。苛烈な条件があるときに,腐って「典型的な収容所囚人」に陥るか否かの決断は,まったく自由に行うことができる,ということ。

そういえば,父親は「今の状況の中で自分に何ができるかを考えてみろ。それは aian(あたしの名前)が自分で自由に決められることだ。」みたいなことを言っていた覚えがある。受験の失敗に対する励ましとしては,やや大げさだとは思うんですが。

しかし,あたしの場合ではないけれども,人生に絶望しきってしまって,決断する力なんてもう残ってないよ,という方もいるはず。こうした人をフランクルはどう励ましたのだろう。

反対に何の生活目標ももはや眼前に見ず、何の生活内容ももたず、その生活において何の目的も認めない人は哀れである。彼の存在の意味は彼から消えてしまうのである。そして同時に頑張り通す何らの意義もなくなってしまうのである。このようにして全く拠り所を失った人々はやがて仆〔たお〕れて行くのである。あらゆる励ましの言葉に反対し、あらゆる慰めを拒絶する彼らの典型的な口のきき方は、普通次のようであった。「私はもはや人生から期待すべき何ものも持っていないのだ。」これに対して人は如何に答えるべきであろうか。

ここで必要なのは生命の意味についての問いの観点変更なのである。すなわち人生から何をわれわれはまだ期待できるかが問題なのではなくて、むしろ人生が何をわれわれから期待しているかが問題なのである。(snip)人生というのは結局、人生の意味の問題に正しく答えること、人生が各人に課する使命を果すこと、日々の務めを行うことに対する責任を担うことに他ならないのである。

※〔〕内は aian

『夜と霧―ドイツ強制収容所の体験記録』(V.E.フランクル,霜山徳爾訳,みすず書房,1961年,pp166-168)

これは少し難しい。多分,あたしもちゃんと読めてないと思います。おそらく,こゆところが,臨床におけるカウンセリングの勘所なんだと思ったりもする。

「人生が私に何を期待するのか」という話は,ある意味とても比喩的で,「人生」をどのように解釈すればいいのか少し迷います。おそらく,この話は宗教的(カトリック的)な「こころみ」として取ることもできて,そゆ風にとるべきなんだとも思う。ただ,個人的には,この「人生」なるもんは,例えばデリダにおける「他者」のようなもんと取りたい。私の彼岸にある,正義や徳のようなものから,私がどのように「問いかけられて(期待されて)いるのか」といった具合。私は,その問いかけに対して応答する責任(respons-ible)がある。もちろん,結果としてそれが神様でも構わないんですが。

ま,そんなに難しく考えなくてもいいんですけどね。本書を読んで「ちと頑張ってやるぜ」とか思ってくれる方がいたらいいなー……とか,つらつら。

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