Entry

今日読んだ本 - 『中学生からの哲学「超」入門』

2009年08月01日

finalvent さんが自分に読めと言っているようだったので,読んでみた(妄想)。面白かったです。でもこれ,中学生には無理。

中学生からの哲学「超」入門―自分の意志を持つということ (ちくまプリマー新書)
竹田 青嗣
筑摩書房
売り上げランキング: 3527
おすすめ度の平均: 5.0
5 大人こそ読むべし

本書は,順当に読むと,大きく3つに分かれた話になっています。最初は,哲学することのきっかけの話で(「I 自分とは何者か」),その次が,これまでの哲学(形而上学)のお作法と最近(現代哲学)のお作法の話(「II 世界はどうなっているか」)。最後は,前2者を受けた,「自分の意志を持つということ」の話です(「III なぜルールがあるのか」「IV 幸福とは何か」)。III章はIV章の理論的な補題になっている。最後の「自分の意志を持つということ」は,副題にもなるくらいのお題なので,結局この部分が読めないと,本書を読んだことにはならないんだと思います。

で,順当に読んだ場合はそうなるんですけれど,おそらく本書は2回読んだ方がいい。どうしてかというと,一番最後の「自分の意志を持つということ」の話で出てくる言葉が,最初の言葉の端々に出てくるから。最初は一般的な解釈でサラっと読めるんですけどね。III章とIV章を読んだ後では,違った味わいが出てきます。

例えば,自分が「正しい」と思っていた現象学が,ポストモダンな論者にコテンパンにされていたことを受けた,次のような話。

三十すぎてから、私は少しずつ文芸評論というものを書き始めていましたが、哲学的にはまず素人も同様でした。だから、この問題は、手に余るものとして放っておけばよいのかもしれない。しかし、もう一方に、自分の中に強い確信がある。そういう場合、それを放り出してしまうことも難しいのです。そうすることは、どう言えばいいか、自分の内的な「自由」を自分で投げ捨ててしまうような気がするからです

※強調は aian 。原文傍点は省略。

『中学生からの哲学「超」入門』(竹田青嗣,筑摩書房,2009年,pp43-44)

この話が出てくるのは,I章の初めの方なんですけれど,この「内的な自由」というのは,本書を最後まで読んだ方なら分かるとおり,「自分の意志を持つことで得られる自由」,つまり,自己のルールを再検証し,一般欲望との関係で自己を相対化することで得られる自由のことなんだろうな……と,なんとなく推測できるし,そう解釈した方が,記述に厚みが出るはずです。

一方,ここで筆者は,「どう言えばいいか」とためらうわけで,「内的な自由」なる言葉は全体の構成を踏まえていない,その場で紡ぎ出した言葉のように見えます。しかし,その答えとして出てきた言葉は,結果として本書の副題に沿ったキーワードだった(と解釈できる)。そう考えると,筆者は本書における思想を十分に内面化した上で話していると考えられるし,その意味で誠実だと思ったりもします。

また,本書の最初に出てくる言葉は,微妙に現象学的な言葉の使い方があったりするので,その意味でも深かったりします。例えば,本書で「世界」といった場合,おそらくコレは,単純な比喩的な意味での「世界」を表しているわけではなくて,実存との関係における世界(世界内存在)のことなんだと思う。「世界」の定義っぽい説明は本書にないから,サラっと読むと,「世界が壊れる」とかいった表現も,ありがちな比喩としてとらえられるんだけれども,もう少し意味が隠されているんだと思います。

個人的な読みで言うと,本書が言うような問題意識は割と抵抗なく実感できるところがあって,特に「とことん壊れる経験がないと、世界は深まらない」(p56)の話は,その通りだと思って読んでいました。本書では失恋の話と結び付けているんだけれども,これはもちろん,失恋を繰り返すことで失恋耐性がつくということではありません。自分が信じていた世界観や倫理観を壊して,再生するプロセスです。これについては以前書いたんですけれど,そんな話なのだろうな,とつらつら。

付け加えると,本書における「自己のルールを再確認する」というのは,自分が意識的または無意識的に寄って立っている場(世界)を自覚するということなんだと思います。そうしなければ,一般欲望との関係で,自分にとって居心地のいい場所を探し当てることができない。そして,こうした場が,他者とのコミュニケーションにおける視差からのみ得られるもので,自分だけでは気づきにくいのも,その通りだと思います。

また,本書では明らかにしていないけれども,さらにもう少し進めると,このことは結局,「自己を批評するために他者の言葉を受け入れること」でもあるんじゃないだろうか。つまり,言葉をたくわえるというのは,自分の外側にあるものを指し示す(批評する)ためだけにあるのではなくて,究極的には,「自分を自分たらしめている理由を指し示す言葉」をたくわえる,ことでもあるんじゃないか,と。ま,そんな感じでごにょごにょ。

一方で,あたしが分かりにくかったのは,「社会のルール」についてです。この記述は少し浅いと思う。例えば,「なぜ人を殺してはいけないか」の記述について。

社会的には、人を殺すことは自分が自由でありうる社会的な資格を自ら投げ捨てることです。ペナルティはその事前の約束です。

『中学生からの哲学「超」入門』(竹田青嗣,筑摩書房,2009年,pp43-44)

あたしがやっていた刑事法の分野では,責任論という議論があります。つまり,国家は何を理由にして,行為に対する責任を個人に科すことができるのか,という話。特に,故意非難の本質論(故意はなぜ有責なのかの話)で議論される話では,引用のような話が出てきます。

故意犯が処罰されるのは,あらかじめ規範の問題に直面していながら,あえてその行為を行うという,犯規範的な人格的態度を表出させたからである。

割と通りのいい説明で,通説だか有力な説だったかになっています。しかし,これは本当だろうか?つまり,今まさに犯罪を犯そうとする人が,規範の問題に直面して自己の処遇(社会的資格)と当該行為を天秤にかけられる(あえて行う)ような機会が与えられているのだろうか,ということです。法律から離れて,今になって思うのだけれども,「規範に直面する」こと,あるいは引用に言う「社会的な資格を自ら投げ捨てる」認識なるもんは,擬制されたものなんじゃないか,と思っています。

引用や上の学説について,あたしが警戒感を持つのは,「自分で撒いた種だから自分で刈り取りなさい」といった論理を擬制しているように見えるからです。また,直面すべき規範や,自由でありうる社会的資格といった,わけの分からないものを理由にすることで,個別具体的な問題であるはずの動機や精神状態が平準化されてしまう。それだったら,倫理的なキレイゴトは言わずに,「国にとって不都合だから」とか「社会にとって異端だから」というように,理由を明言した方が,幾分か個人の個人性を尊重することになるんじゃないかと思うのでした。

ちと横道に逸れました。

本書は,一般欲望にスポイルされない,自分にとって居心地のいい場所を,自分の力で(そして他者と調整して)見つけ出すための指南書だといっていいのだと思います。見つけ出すためには,他者との関係で何度も挫折するべきだし,中学生にはそれが許されている。三十すぎたあたしにも許されてるといいんだけど。

Trackback
Trackback URL:
[2009年08月14日 10:01] 大人のための議論作法 from 忍者大好きいななさむ書房
大人のための議論作法 [more]
Ads
About
Search This Site
Ads
Categories
Recent Entries
Log Archive
Syndicate This Site
Info.
クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
Movable Type 3.36
Valid XHTML 1.1!
Valid CSS!
ブログタイムズ

© 2003-2012 AIAN