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某所を読ませてもらっての感想とか政治の言葉とか

2009年08月18日

ものすごく抽象的な話になってしまうので,心当たりのない方には申し訳ないのだけれども。

「正義」つのは,それがどんなものであれ「あえて乗る」のがお作法だと思うし,「国家」なる物語にしても,それがどんな国家観であれ「あえて乗る」のがお作法なんだと思うんですよ。どうしてかというと,正義にしても国家にしても,それが政治の言葉を規定するそれそのものだと思うから。いやむしろ,政治なるもんは,正義や国家(公共)といった概念の裏表に過ぎないと言ってもいいんじゃないだろうか。

んなもんで,国家に従属する立場であれ,反国家の立場であれ,はたまた脱国家的に個人に回帰する立場であれ,政治的な言説に乗っかっているということは,つまるところ国家や政治の物語に乗っかっているわけで,結局のところ「それを自覚しているのか」といったところが問題なんだと思ったりするわけです。「あえて乗る」というのは,どんな立場であれ,自己すら物語化(政治化)して架空の自己を定立するようなことでは決してなく,むしろ,そうした物語が見せる現実感を「それとして」認識しつつ,何より「私のために」戦略的に利用することだったりする。

その意味で言うと,変な政治言説を振りかざしてそれっぽいことをいうよりも,目先の利益を追って投票する人の方が,現実的な政治を生きていると思うし,目先の利益にいわゆる「目先」こそが,その人の政治におけるリアルなのだと思う。そして,ここにいう「目先」の射程は,言葉でいうほど短いものではなく,大抵,案外遠くまで見据えられているもんだったりもする。

また,この場合における責任は,選択に対してこうむる実質的な不利益を意味するわけだし,誰のせいでもなく「私」の選択の結果として甘んじて受けなくてはならない不利益という意味での責任だろう。もちろん,ここにある価値観には,政治言説としての「責任」や「将来」といった「言葉」や「概念」に対するかなり根の深い不信があるわけで,そんなわけの分からんものに,私の現実をゆだねることはできないということでもある,と。

あたしが法律や制度に対して「あきらめた」後の態度は,結局こういうもんなわけで,結局個人主義なるもんは,こういうところにしか現れないんじゃないかとおもったりもするわけなんですけれどむずかしくなってきたのでごにょごにょ。

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