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リベラリズムに挫折してもリバタリアンにはほくそえむ

2009年08月22日

仕事でしこたま飲まされて,意味不明の説教を食らいまくった後なので,ギリギリアウト気味に書いておきます。「そこら辺でいい加減にしとけよ,てめーら」みたいな雰囲気で(あくまでも雰囲気)。本当は,SQLite の話も続けたいんですけどね。選挙時期だし,たまにはレンチャンで基礎的な政治の話をしてもいいんじゃないか,と。

と,そこで。

あたしが基本的にリベラリズム,あるいはチョイ左派な立ち居地にいるのには,20代の前半を過ごした法学分野が源流にある気がしています。法学は,裁判所こそやや保守寄りだけれども(積極的に保守を唱えない,消極的な保守だと思っている),学会はかなりリベラルな場所だったりします。特にあたしがいたところは在野精神がどうとかとかいったこともあって,風潮はやや左派寄りだったのでした。

もっとも,法学の場合,机上の理屈で言うことだけ言ってるようじゃ警察はいらないわけで,実際,リベラル的な立場では,解決することが困難なケースが出てきます。どちらにも言い分がある場合がザラにある。ここで,考えることをあきらめて,強権的な事実上の論理(剥き身の暴力)に頼るのは簡単です。何につけ,力を持ってる人(国家)が偉いといっておけばいい。また,経済問題と生存問題がかち合う場合も,事実上,擬制的にも「全体」を扱っている経済理論は,個別問題としての生存問題に対して,優越的な価値を持ちがちです。

この点,法の支配がなぜ近現代国家において重要な概念なのかを考えるに,そうした優越的な価値から取りこぼされる少数派の価値を守る必要があるからです。それは例えば,民主主義を守るためでもあるし,個人が個人として尊重される仕組みを守るためでもある(これらは一般に相反する)。

ぶっちゃけた話,強い人は,法律なんかなくても,自分で自分を守ることができるんですね。異論はあるかもしれないけれども,法律の役割は,基本的に,事実がもたらす剥き身で不条理な暴力を,法というオブラートで見えにくくすることにあるわけで,強者に対して暴力のお墨付きを与えるもんではない,と。強者のためにある法律なんつのは,形式的な法治主義であって,近代国家の体裁を整えているに過ぎない,という基本的な立場があるというわけ。

つことで,あたしゃなんとなく左派でリベラル寄りになってしまう,と(厳密に言うと左派==リベラルではないのだけれども)。そして,少なくとも形式的なリベラリズムを掲げるだけでは,世の中は立ち行かないということも知っているつもりです。そこには,挫折とあきらめがある。

一方,リバタリアズムの方はというと,まず,発想からして本当に分かりやすい。あたしとしては,どうしてここまで分かりやすい理屈を思いつくのか,といった点でまず疑問なんですけどね。もう少し丁寧に疑問の中身を説明しておくと,ひとえに「社会性の捨象(欠如)」といったもんが挙げられるんだと思う。

社会性というのは,法理学的な話でなくここでの言葉だけれども,法学の文脈で言うと,衝突する利益(権利)を具体的に調整する作用だと思ってもらっていい。こういった調整作用を,リバタリアズムはほとんど無視して,消極的自由に対する偏向した理念や経済原理から直接解決法を演繹しようとする。そんなに世の中甘くねーんでねーの?と,挫折したリベラリストとしては思う。

一般に国家や社会が,仮に共同幻想や擬制の類であったとしても,具体的な利益衝突は存在するわけで,しかもそれは法的紛争の最もプリミティブな形態だったりします。当事者が,お互いに不可侵な権利を持っていて,しかも,事実として利益が衝突している場合。抽象的な意味での社会や国家がなくても,具体的に他者と対峙する機会があるということです。そうした紛争の調整も含めて,ここでは社会性と言っています。このような場合,リバタリアンはどのように問題を解決するのか。

ひとつには経済的効率性や確率論のような,当事者の外部にある原理・原則(ゲーム)を形式的に持ち出す解決法がある。これは非常に分かりやすい。しかし,それこそが「当事者間の紛争」といった固有の事象を軽視する当のものであると思うし,「分類」や「原理」の視点が典型的に志向する「全体」だろう。そして,全体を志向する視点は,とりもなおさず治者の発想であって,被治者の発想ではない。リバタリアンは,具体的な治者の交換可能性でもって,公平を実現しようとするところがあるようだけれども,発想の根本からして「上から目線」なわけで,上述の通り,固有の事情を抱えた漏れる人がわらわらと出てくる(これは実証済みだろう)。「それでもいい」と自覚的に宣言しているのが,リバタリアンなんだろうと思うんだけれども,それはどうなんだろう。

あたしゃ別に,固有の事情を抱えた漏れる人に対してウェットな同情を寄せるべきだ,とかいった話はしていません。そうした発想では,社会は治まらないよ,と端的に思っているだけです。例えば,漏れる人達に対して,夜警的な視線を向け続けなければならないコスト。漏れる人が社会そのものから離脱するコスト。

リバタリアンは,机の上で作った自説に都合のいい問題や思考実験ではなく,現実の問題に当たってみるべきだとも思う。

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というのも,ここら辺について,政治学の偉そうな学者さんですら,全く踏まえてないことがあって辟易することがあるから。

社会紛争を解決する際の視点には,ルールの一般性と,事案の個別性のバランスを取ることが大切なわけだけれども,ここら辺は本当にセンスによったりします。あたしにゃそういうセンスはなかったわけだけれども,そのあたしから見てすら,机上のクールな言説を振り回している連中には「センスねぇなー」とか思ったりしています。

ま,ともあれそんな感じ。酔いもさめた。

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