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安心社会メモ

2009年08月29日

運動不足だかなんだか分からないんですけれど,ここ数日,朝肩と背中の痛みで起きるということがあるもんで,にんともかんとも。寝不足です。しばらく活動してると,痛みも取れるんですが。

それはともかく,「安心社会」なるもんは実現するのだろうか,と少しつぶやき。いや, 具体的な政策論とかではなく,みんなが「安心できる社会に暮らしたい」というときの「安心社会」というのはどういう状態なんだろう,とか云々。

まだまとまらないんだけれども,「安心」なるもんをいろいろな意味で(経済的・精神的・身体的等々)理不尽な危険がない状態とすると,これは「何も起きない社会」というのと同値なんじゃないだろうか。よく分からないけれども,エントロピー的なものが限りなく0に近い状態,みたいな。何もしなければ,良くもならないし悪くもならない,みたいな。

この点で,理不尽な「良いこと」が起きることは安心社会と矛盾しないから,同値ではないという向きもありそうだけれど,だいたい,良くなるとか悪くなるとかってのは,理不尽の視点(リスクの視点)からすると判別不能なわけで,エントロピー的なものっつのも,「よく説明できない出来事が起こる/起こらない程度」を表しているだけのような気がする。ある人にとっては,理不尽な良いことでも,他の誰かにとっては,理不尽な悪いこと(危険)かもしれない。他の誰かにとっては,どうでもいいことかもしれない。

そうした視点をさらに進めると,社会なるもんは,むしろ理不尽をエネルギーにしてギクシャクと回っているんじゃないかと思ったりもします。人が動くから理不尽が生まれる。しかし,人は理不尽を望まない,みたいな関係。また,持てる者は受容できるリスクの閾値が高いことから,たくさん動くことができるのに対して,持たざる者は少しの理不尽で吹っ飛んでしまう,といった話も出てくるのかな。人が吹っ飛ぶ閾値(限界)を定量化できるとしたら,それを重みにして,個々人が面するリスクの大きさを割った値の総和(平均)は,おそらく,社会全体が受容できる理不尽の程度を表しているんだと思う。観念的だけれども。

で,このとき,その総和が同じであっても,個々の成員が吹っ飛んでいる割合が同じとはかぎらない。内部の分散をどのように設定するかが問題になるのだろう。

ま,結局のところ,一般に安心社会なるもんは,世の中の理不尽が全くない社会を表しているのではなくて(多少は少ないのだろうが),理不尽で吹っ飛ぶ人の少ない社会ということになるのだろうな,と。一方,動かなかったら,理不尽は生まれないわけで(理屈どおりに年老いて死んでいく),そうしたニート戦略も戦略のひとつだとは思ったりもする。どんなもんだろう。

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