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国家と正義について少しメモ

2009年09月02日

この頃政治の話ばっか。たびたび読んでくださってる方の中には,飽きちゃった方もいそうだけれど,懲りずにまだ書く。以前も引いたかもしれないけれど。プラトン『国家』より。

国家 下    岩波文庫 青 601-8
プラトン
岩波書店
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おすすめ度の平均: 4.5
4 哲人ソクラテスの真髄! プラトン兄弟の敗走劇
4 人類の思索の歴史を学ぶには良いと思う
5 理想国家とは何か
4 正義論と国家論の原点
5 国家のあり方

『国家』は哲学的には正義論,政治学的には国家形態の分析論として読まれているところがあるんですけれど,基本的な政治的態度に関するひとつの範型を提示している,と読みたいところがあったりします。

「だがしかし」とぼくは言った、「それ〔理想国家〕はおそらく理想的な範型として、天上に掲げられて存在するだろう――それを見ようと望む者、そしてそれを見ながら自分自身の内に国家を建設しようと望む者のために。しかしながら、その国が現にどこかにあるかどうか、あるいは将来存在するだろうかどうかということは、どちらでもよいことなのだ。なぜなら、ただそのような国家の政治だけに、彼は参加しようとするのであって、他のいかなる国家のそれでもないのだから」

※〔〕内は aian 。

『国家 下』(プラトン,藤沢令夫 訳,岩波文庫,1979年,p300)

本文の理想国家や正義論には,少しどうかと思うところはあるんですけれど,上の文句は覚えておいてもいいんじゃないかと思う。

少し前,エライ人の話を聞いていたところ,「大きな国家」とか「小さな国家」とかいった話があったんだけれども,どうも,この話そのものが国家のグランドデザインなり理想なりの話と同視されているところがある気がする。どうしてそういう発想になってしまうのだろう。ま,その人の思考回路の当たりは付いてるんですけどね。外れてるかもしれないから,わざわざ言わない。

大きな国家とか小さな国家とかいった話は,どんな人が夢想するものであれ,その人が理想とする国家像に向かうための手段であって目的ではない。また,手段を決めたら自動的にその目的に到達するかといったら,そんなこともないだろうし,その手段しか目的に達する道がないかというと,そういうわけでもないだろう。さらに,もっとメタな話をするとしたら,そもそも,この手の話に目的論なるものが成立するのだろうか,というところも問題だったりする。つまり,ただの言葉遊びなんじゃね?と。

くだんの論者は,そこら辺まで考えて,大きな/小さな国家といっているのだろうか。どうもそうとは思えない。そこまで考えられないなら,衆愚よりも性質の悪い「言うだけ番長」だろう。当事者にならないまま,外野で野次を飛ばしている。また彼は「何を目的にして」大きな/小さな国家といっているのだろう。そこを知りたいのだけれども,彼から出てくる言葉は,なんとかの一つ覚えみたいに大きな/小さな政府そのものの話ばっか。もしかして,これしか政治の語彙がないんでね?とかとか。受け売りなんじゃね?とかとか。

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