Entry

今日観た映画 - 『しんぼる』

2009年09月13日

最近映画づいてるもんで,また観てきました。織田裕二(アマルフィ)と松本人志(しんぼる)を秤にかけた結果,松本を取った。

しかし,なんつか初日なのに人の入りは少ないし,せっかく入った人も性質が悪く,女子中学生がうるさくて参りました。お笑いライブのつもりなんだろうか。これから行く方がいるなら,レイトショーで観るのがおすすめ。しょんべん臭いガキがおねんねしてる時間帯,という意味で。

松本の感覚について,あらかじめ個人的な偏見を書いておくと,日常で共有できる話をネタにするというよりは,特異な視点から日常を振り返るようなネタが多い感じがしています。フリークじゃないので,そんなに語れないんだけれども。で,こゆのは,観る人を選ぶというか,水の合う人ははまるけど合わない人(視点を合わせられない人)には,何を言ってるのか全く分からない,といったところがあるのだと思う。

松本を「笑いの神様」と崇める向きの中には,「松本の視点に自分を合わせられること」そのものを,「笑いに対する感性の高さ」としてステータス化する向きもいるようだけれども,個人的には,単純に視点の移動の差異に過ぎない気がしていたりします。その意味で言えば,松本そのものがすごいというよりは,松本の感性にすばやく合わせられる視聴態度の方がすごい。松本に対する現在の評価は,そうしたステータス化に守られていたところもあるんじゃないかと邪推したりもしています。

で,本作。

本作は,閉鎖した空間から脱出を試みるしん坊(松本人志)と,メキシコのプロレスラーの話を同時並行で描写した作品。はじめ,両者の関連はないけれども,後の方でまとまります。

「閉鎖空間からの脱出」といったモチーフは,これといって珍しいものではなくて,あちこちにあるわけですけれど,それを松本流にどのように消化(昇華)するのか。そこんところが見所だと思います。しかし,個人的には,これまでの発想を超える成果はなかった気がする。語りたい人向けに,いろいろとエサは撒かれているものの,結局あたしが思いついた以上の話は出てこないだろうし,話したところで既出なので意味がないとも思う。念のために言っておくと,「思いついた以上の話は出てこない」というのは,あたしがすごいということではなくて,意味深に見えてそれほど深い意味はないと思った,ということです。

ひとつちょっと面白かったのは,クライマックスで明らかに尊師っぽい描写があったところ。松本つながりだな,と思ったくらいなんですが。これ,そのままベタに尊師として受け取ったら,新興宗教の勧誘ビデオになっちゃうので,パロディとして観るべきなんだと思う。もっとも,これをパロディにしちゃうと,話がありきたりな方向にしか倒れなくなってしまうので,それ以上の意味があるとするなら,結局何を描きたかったんだかよく分からなくなってしまう。くだんの女子中学生は,ご丁寧に「パジャマの色がなくなってるぅー」とか解説してくれたけれども,オウムを知らない向きの,この感想くらいが適当なのかも。

こゆ意味深で解釈の可能性が開かれている(ように見える)モチーフを提示する場合,独断的に仕掛けるのは NG で,うまい具合に観客のトラウマにつけ込まないといけないんだろうとは思います。ヱヴァがそれで成功したように。

密室内での一人芝居で1800円のうち500円くらい回収できた感じ。残りの1300円は,「松本の視点にどれだけ合わせられるか」といったところにかかっていそうです。

Trackback
Trackback URL:
Ads
About
Search This Site
Ads
Categories
Recent Entries
Log Archive
Syndicate This Site
Info.
クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
Movable Type 3.36
Valid XHTML 1.1!
Valid CSS!
ブログタイムズ

© 2003-2012 AIAN