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読書メモ - 倫理と責任,あと「私的なもの」について

2009年09月28日

引き続きアレントを読んでいるんですけれど,アレント自身の話に耳を澄ますだけでなく,少しデリダとも対話させてみたいと思っています。関連があると思われる点を結び付けると,理解も深まるだろうと思っただけで,そんなに大それた話じゃないんですけどね。

人間の条件 (ちくま学芸文庫)
ハンナ アレント
筑摩書房
売り上げランキング: 32680
おすすめ度の平均: 4.0
3 読んで損はない。が……
4 人間として生きる意味を問う、一つの視点
3 もっと労働に意欲を示せ
5 自分の視点の軸にすえる
4 名著だが読解には注意が必要

アレントにいう「私的領域」について,どんなもんなのか,デリダから紐解いてみたい。アレントを引く人は,一部,念仏のように「私的領域に社会が侵入していくことで,現代は私的領域がなくなってしまった」みたいなことを書いています。実際,アレントもそう言っているので,少なくとも字面に関する限り,このことは間違いありません。

しかし,「私的領域」なるものは,単に「家族の領域」とか「公的領域と対置すべき領域」なるものを指しているだけなんだろうか。解釈について,ややギリギリアウト気味に読み込んでいるんですけれど,これは多分違うと思う。そして,この点を見逃すと,単純に「私の問題がみんなの問題になった」といった素朴な大衆理論的解釈に陥ってしまうような気がします。また,特に,本書のかなり前の方しか読んでいないと,「自分の生命と生存をまず第一に保証できたのは、ただ家の中だけだったからである」(p57)のような表現に引きずられて,「現代は私的領域が縮減してしまったために,安全な場所がなくなった」とかいった,陳腐な結論しか出てこない気がします。たしかにそりゃそうなんだけど,そんなこと,アレントが骨を折って論証しなくたって,誰でも思いつく。

アレントも言うように,私的領域と公的領域の関係は,対置されるものの一方が他方を駆逐するような関係にあるわけではありません(p103)。それは,「人間活動の場」として,相互補完的に必要とされる領域とされています。公的領域で活動するためには,私的に「隠しておく」必要がある領域が不可欠なわけで,私的領域とはそういう領域だったと云々。

では,この点について,私的領域における活動力とはどのようなものなのか。倫理の話について,少し長いけれども引用しておきます。

たしかに、この両者〔※善への愛と知への愛〕とも公的領域にたいして一定の対立関係にある。しかしその点では、善の方がはるかに極端であり、したがって私たちの文脈ではいっそう重要である。滅ぼされないためには絶対的に隠され、あらゆる現れを避けなければならないのは、善だけである。(snip)

善を愛している人は、けっして、独居生活を送ることはできない〔※プラトンの洞窟の比喩を引いて独居と言っている〕。しかも、彼の生活は、他人とともにあり、他人のためにありながら、本質的に証言のないままにしておかなければならず、なによりもまず自分自身という同伴者を欠いている。彼は、独居しているのではなく孤独なのである。彼は他人とともに生きながら、他人から隠れなければならず、自分のしていることを自分自身が安心して目撃することさえできない。哲学者はいつも自分自身を同伴しているという考えに慰められるが、善行は、どんな人も同伴できない。善行は、行われた途端に忘れなければならない。なぜなら記憶でさえ、善の善たる特質を滅ぼしてしまうからである。さらに、思考は、記憶されるものであるから、結晶して思想となる。そして思想は、記憶されるからこそ存在できるすべてのものと同じく、書かれたページや印刷された本のように、触知できる対象に変形されて、人工物の一部となる。ところが善行の方は、すぐに忘れられなければならないから、けっして世界の一部となることはない。それは、生まれ、なんの痕跡も残さずに去る。実際、善行はこの世界のものではない。

※〔〕は aian 。

『人間の条件』(ハンナ・アレント,志水速雄 訳,筑摩書房,1994年,pp107-108)

要するに,善い行いなるものは,自分が「善いことしてる」と言葉に出すなり思い浮かべるなりするだけで,善いものではなくなってしまう(滅ぼされてしまう),ということ。「善いことしてるオレ」のような観念は,記憶の中においてすら形に残すことができない。したがって,善行は私にとってすら私的な「隠されるべきもの」なのであって,公的領域ではなく,まさしく私的領域を活動の場にしているし,この世界に存在しない(現れない)ものというわけ。政治思想の領域に関する限り,これを政治的倫理なり良心なりの問題と言い換えてもよさそうだけれども,実際はもう少し広い話なんだと思います。

死を与える (ちくま学芸文庫)
J・デリダ
筑摩書房
売り上げランキング: 189581
おすすめ度の平均: 4.0
4 やはりヨーロッパ文化の前提には一神教がある
4 デリダ(が/に)死を与える

で,この点について,デリダを引いてみます。このサイトでは何度か引いているけれども,倫理と責任を扱った『死を与える』という著書があります。デリダは少し分かりづらいんですけど。

キルケゴールによれば、倫理的要請は普遍性に従うものである。だからそれは語ること、つまり普遍性の媒体に入り込んで、自分を正当化したり、自分の決断を釈明したり、自分の行為をみずから保証したりするという責任を定めるものである。それでは供儀が近づいたとき、アブラハムは何を教えてくれるのだろう。倫理の普遍性は、責任を保証するどころか、無責任へと駆り立てるものだということである。それは語り、答え、釈明するように仕向けるのであり、要するに私の単独性を概念という媒体(エレメント)において解体してしまうのである。

ここに責任のアポリアがある。つまり、責任の概念を形成しようとしても、それに到達することができないおそれがある、ということである。というのも責任(もはやあえて責任という普遍概念とは言うまい)は、一方では普遍的なこと(ジェネラル)について普遍者(ジェネラル)の前で説明したり、自らの言動を保証したりすること一般(ジェネラル)、すなわち置き換え〔= 身代わり〕を要求するのだが、他方で同時に、単一性、絶対的な単独性、すなわち非-置き換えと非-反復を、そして沈黙と秘密をも要求するからである。(snip)絶対的な責任は絶対的に、そして何にもまして例外的なもの、あるいは常軌を逸したものでなくてはならない。あたかも、絶対的な責任はもはや責任の概念に依存してはならず、それがそうあるべきもの〔絶対的責任〕であるためには、概念化不可能なもの、さらには思考不可能なものにとどまらなければならないかのようだ。だから、絶対的に責任のあるものになるためには、無責任でなければならないかのようだ。「アブラハムは語ることができない。なぜなら、彼はいっさいを説明するような言葉を[……]口にすることができないからである。それが試練であることを、そして注意すべきことに、倫理的なものが誘惑(まどわし)であるかのような種類の試練であることを語ることができないからである。」

『死を与える』(ジャック・デリダ,廣瀬浩司 訳,林好雄 訳,筑摩書房,pp127-130)

表現は難しいけれど,言っていることはアレントのそれとほぼ同じ。自分の行いについて口に出して「概念化」することは,私の私の責任としての単独性に対して「身代わり」を立てることであり,逆に無責任になってしまう。デリダは,少なくともアレントの上記引用よりもこの点を深く考察していると思っていて,真の善行なり責任者になったときにおけるアポリア(行き詰まり)を注意深く考察しています。そして,絶対的な他者(ジェネラル)と対峙したときに宙吊りになるその場から「決断する」ということ,そこに正義があるとしている。

ともあれ,いずれにしろ,この点で,アレントとデリダは結びついた感じがします。なんつか,偏見でアレントとデリダはすれ違うところが多いと思っていたんですけれど,少なくとも立つべき同じ地平はあるようです。

しかし,デリダとアレントにおける,「責任」や「善」といったものに対する態度で共通するのはここまでで,両者は異なる方向から他者との関わり方を模索し始めます。デリダは,なんというか,アレントに言うような「人と人との間」のような作用について,あきらめているところがある気がしている。いくらそこにいる他人について,自分が作用したり作用を受けたりしているように見えても,それは私にとっての「現れ」にすぎない,とかいった具合に,「私の問題」に解消してしまうところがあるんだと思います(これはかなりアウトだと思われる直感だけれども)。私の内における私でないもの(神とか他者とかいったもの)との関係の問題にしてしまう。

これに対してアレントは,他人と関わることができる場があると信じている。あたしが今のところ「信じている」と表現するのは,今まで読む中で,この「公的領域の存在」に関する論証を読み取ることができていないからです。ともかく,そういう場があるということにしている。

一方で,デリダがそうした(あるものとされる)場を忌避したのは,外でもなく個人が「私」個人として活動する場を求めたからなのだと思います。引用にもあるとおり,「概念」は私の「単独性」を解体してしまう。そして,いわゆる「公的領域」なるものは,まさにそうした個人の解体の場であるわけで,これに対する根強い不信と懐疑があるのだと思う。仮に,何かの細工を仕掛けて,そうした場が設定されたとしても,その場自体が概念化され権威化してしまう。脱構築するしかない。

こうした懐疑にアレントは応えることができるんでしょうか。もう少し読み進めてみることにします。最近めっきり本を読むのが遅くなっちゃったもんで,なんだかなあ,なとこもあるんですけど。

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