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ネットにおける存在確認の作法について

2009年10月01日

周期的に「もうブログの運営はいいかな」と思うことがあります。今そうなんですけど。で,そのたびにぼちぼちこらえつつ,今年で6年目。何やってんだか。

もっとも,こらえられている要因は,ブロガーとしてのなんとかとか,世の中に貢献がうんたらとかいったもんじゃなくて,ただ,他に都合のよさそうな表現媒体が見つからないだけだからだったりします。そもそも,「ブロガーってなんっすか?(藁」って感じだし。他によさげな媒体がある(または思いついて作れる)ようなら,割と抵抗なく移ることができるんじゃないかと思っています。この点,今時は Twitter が人気みたいだけれども,アレはちと勘弁。

なんつか,この頃かなり切実に思っていることなんですけれど,ネット上の表現が「仕事」として扱われることはほとんどなくなっているんじゃないだろうか。ま,思いつきはアレントからで,他でもガンガン言われていることなんだけれども。代わりに,習慣的で循環的で消費的な「労働」的要素が強い。アレントによると,労働は個体としての人間が生存するための必然的活動なわけで,何か目的があってするもんじゃない,とされています。やらなきゃ死んじゃうから,仕方なくやる類の活動だ,と。

この点,ブログってのは別にやらなくても死なないわけですけれど,なんつか,個体としての人間とは別の意味で,生命に対する実存に触れるもんがあるんじゃないかと思っていたりします。「ネット上の発言は,発言そのものに意味があるわけではなくて,生存確認の記号的な要素が強い」みたいな話をどこかで読ませてもらったことがあるんですけれど,それと同じ感じ。むしろさらに進めて,ネット上に書き込むことは,「生存確認」どころではなく「存在確認」に近いと思ったりもします。「やらなきゃ死んじゃう」,というよりは「やらなきゃはじめからいなかったことにされちゃう」といった感覚に近い。それは,意識的な脅迫観念というよりは,むしろ生存本能に近いのかもしれません。

あんまりやってないのにアレコレ言うのもなんなんですけど,Twitter が発明したのは,こうした「存在確認」のための「労働」を軽減する作法だったんじゃないだろうか。一言書き込むだけで,お手軽に存在証明できること,これですよ。プロフの類は静的な「データ」だけれども,Twitter には,存在と生存の鼓動がある。それにどれだけの「公的」意味があるのかについては,謎だけれども。

もっとも,ネット上の生存本能なるものは,想像通り脆いもので,「書かなくても死なないじゃん」ということに気付くと,途端に冷めるところがあったりします。6年前,よく読ませてもらってた(あるふぁ)ブロガーさんは,この頃ぱったりと書かなくなってしまったけれども,それに気付いてしまったのだろうか。もしかしたら,ネットよりも建設的な場所を見つけたのかもしれない。

いずれにしても,ネット上の話はますます刹那的でテキトーな感じになっている気はします。人のことは言えないんだけれども,眺めていて時間の無駄をものすごく感じてしまうこともある。ネット上の話が今後「仕事」の類になるとは思えないので,そろそろ次を見据える必要があるのかもしれません。ま,周期的に同じようなことを言ってるので,ただのぼやきだと思ってもらえばいいんですけど。

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