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読書メモ - アレントの引用例について,ひとつ答え合わせとか

2009年10月16日

アレントを一通り読み終わったので,他書でされている引用の答え合わせみたいなことをしています。アレントは,特に「アクション(活動)」の箇所で,一見口当たりのいいコミュニケーション論が並ぶことからか,よく引用されているんだけれども,ほんとにそんなこと言ってるか?と思うことが少なくありません。

例えば,『自由を考える』から。

自由を考える―9・11以降の現代思想 (NHKブックス)
東 浩紀 大澤 真幸
NHK出版
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5 パラドキシカルな視点にあふれた現代世界分析
4 東浩紀再考
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3 表題に偽りあり?日本文化論として読むべき本

コミュニケーション論にこんな話があります。対談形式で,話者は大澤真幸氏です。

ところがですね、彼女〔アレント〕が予想だにしなかった展開というのが現在起こっていることになると思うのです。つまり東さんが提示した問題というのは、言ってみればコミュニケーションとしてのコミュニケーションを本当に純化していった場合に、つまり、コミュニケーションをレイバーやワークへの奉仕から解放し、純粋に自己準拠させていった場合には、コミュニケーションはただの機械の相互交換と同じようなものになっていく、あるいは動物的な反応に近いものに帰っていく、ということだろうと思うのです。アーレントの前提では、もっとも「人間的な」水準が、逆に、非人間的なものへと反転していくわけです。

〔〕は aian 。

『自由を考える―9・11以降の現代思想』(東浩紀,大澤真幸,NHKブックス,2003年,p112)

本当にそんなこと言っていただろうか。というか,大澤氏における「コミュニケーション」の理解は,アレントにいわゆる「活動(アクション)」と重なるものなんだろうか。

あたしにはそうは思えません。

人間の条件 (ちくま学芸文庫)
ハンナ アレント
筑摩書房
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「人間の条件」として活動を挙げるアレントですけれど,これは,まずもって,人間の多数性を前提にしています。さらに,彼女は,動物的な欲求や欲望に基づく行為を,「活動」と明確に区別している。

多種多様な人びとがいるという人間の多数性は、活動と言論がともに成り立つ基本条件であるが、平等と差異という二重の性格を持っている。(snip)もし各人が、現在、過去、未来の人びとと互いに異なっていなければ、自分たちを理解させようとして言論を用いたり、活動したりする必要はないだろう。なぜならその場合には、万人に同一の直接的な欲求と欲望を伝達するサインと音がありさえすれば、それで十分だからである。

『人間の条件』(ハンナ・アレント,志水速雄 訳,筑摩書房,1994年,p286)

大澤氏にいわゆる「コミュニケーションの純化」なるものについて,もう少し知る必要があるとは思うんですけれど,少なくとも,動物的な意味でのコミュニケーションとは区別しているし,人間の多数性(≒他者性)の次元をメルクマールにしている点で,「データベース」のような差異を捨象した平等一辺倒からも距離を置いている。

それでは,この「コミュニケーションの純化」を,コミュニケーションそのものを抽象化する意味として捉えるならどうでしょう。この点でも,アレントの論旨には合わない気がします。

最も抽象的な形式の他者性は、ただ、無数の非有機的な物体の間にだけしか見られない。これにたいし、有機的生命の場合には、同じ種に属する個体の間においてさえ、すでに、多様さと差異が示されている。しかし、他と自分を区別することができるのは人間だけである。

『人間の条件』(ハンナ・アレント,志水速雄 訳,筑摩書房,1994年,p287)

たしかに言論は、伝達と情報の手段として極めて有益である。しかし、伝達と情報の手段としてならば、言論を記号言語に置き代えることもできる。しかもその場合、記号言語の方が、数学やその他の科学教育やある形式の共同作業などの場合に見られるように、一定の意味を伝えるのにはるかに有益であり、便利であろう。またたとえば、活動する人間の能力、とくに協調して活動する能力が自己防衛や利益の追求のような目的に有益であることもたしかである。しかし、ここで問題になっているのは、ただ単に活動を目的のための手段として用いることにすぎない。だから、それと同じ目的を達成するには、むしろ無言の暴力の方がはるかに簡単であることは明らかである。したがって、言論を純粋に有用性の観点から見れば、それは記号言語の不便な代替物であるように見えるし、同じように活動は、暴力の必ずしも効率的でない代替物のように見えるだろう

※強調は aian 。

『人間の条件』(ハンナ・アレント,志水速雄 訳,筑摩書房,1994年,p291)

大澤氏にいわゆる,「機械の相互交換と同じようなもの」なるもんは,言論の伝達目的を極度に効率化させたものという意味で,アレントにいわゆる「記号言語」と同じなんじゃないだろうか。そうだとするなら,アレントは,言論は「機械の相互交換」ではないと言い切っているし,少なくとも,予想の範囲には入っている。ダメなコミュニケーションという次元で。

だいたいもって,アレントの発想は,「機械化される世界に疎外される人間」をひとつの起源にしているわけで,人間の本来あるべきコミュニケーションとして,機械論的/記号論的なあり方を対置しないはずがない。……と思うんだけど,どうだろう。

偉そうだけれども,どうも曲解している気がして仕方ありません。アレントの罪なところは,もの言いたげな人の語彙に,(誤解含みで)するりと入り込んでしまうところにあるように思えます。

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