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勝間氏はいつから臨床家になったのだろうか

2009年11月05日

こちらから。del.icio.us のタグに psychology ってのがあってウケた。グッドジョブ。

そして、例えば自分は勝間よりもいい言葉を知っているし、コラムを書く能力があるのに、その機会がない、自分の能力が認められていない、という無意識の不満があり、それが相手(私)に対する批判という形で表れるのです。

(snip)

これはすなわち、「自分の専門知識を相手にわからせたい」という承認欲求の裏返しなのでしょう。

私はこのことにうすうす気づいていましたが、自己承認欲求の裏返しだと言葉にしてもらってから、すっきりしましたし、それを自覚することで、必要以上に攻撃的になることを避けられるようになったと感じています。

asahi.com(朝日新聞社):批判は認められたい欲求の裏返しである - 勝間和代の人生を変えるコトバ - ビジネス・経済

一昔前のぶろごすふぃあで,専門家でもないのに,やたらと人の精神分析やら性格分析をするトホホな人がいたんだけれども,勝間氏もその道に進んでしまうのだろうか。

他人の「承認欲求」を指摘するということは,その人間を何の留保もなしに「社会的弱者」とか「人格障害者」呼ばわりすることと,ほとんど同じだったりします(参照:承認欲求 - Wikipedia)。勝間氏にはそういう自覚があるのだろうか。また,批判者をそうと決め付けた上,自ら嗤うことで精神的な平衡を保つ対処法が,本気でまっとうなもんだと思っているのだろうか。

逆に、自分がかかわったことについて批判されたときにも、相手の立場を考えて、どこまでの内容をアドバイスとして受け入れるべきか、そして、どこからが「見て、見て、見て、自分を認めて」という相手の自己承認の欲求なのかをある程度、見極められるようになってきました。

asahi.com(朝日新聞社):批判は認められたい欲求の裏返しである - 勝間和代の人生を変えるコトバ - ビジネス・経済

臨床家になったのか。

精神分析的/性格分析的な用語は,無条件に話者を特権的な地位に置いてしまいます。ある意味で,究極の上から目線だったりする。だからこそ,臨床家としてのモラルが問題になったりもします。そして,一方的に決め付けるということは,対話から自ら離脱することだったりもします。こうなってしまった人間に,もう対話の余地はない。それでもいいのだろうか。引用に言う「見極め」というのは,自分にとって都合のいいところだけ対話しよう,ということにはならないのだろうか。

大体,公開の場で何か書き続けてるようなのは,もともと人格的に普通と違うっつの(要するにビョーキ)。当然,自分も含めて。

(追記)

yosuken 勝間和代, 心理, コミュニケーション 元リンクの記事は、承認欲求に自覚的になる事で攻撃性を押さえられるというのが主旨だ。前半の引用部分は自分の心理についての記述だし、後半は「ある程度」見極められるといっているだけだ。2009/11/06

はてなブックマーク - qune: 勝間氏はいつから臨床家になったのだろうか

その通りだと思います。「だけだ」とは思いませんけど。それを踏まえて,このエントリで問題にしているのは,次のようなことです。

  • なぜ,同氏は能力的な背景なしに(自らのではなく)他人の承認欲求なるものを(「ある程度」であれ)「見極め」られるのか。自分がそうだから,他人もそうだと思っているだけなのか。
  • あたしゃ同氏に見極めるだけの能力的な背景はないと思っているけれども,仮に,同氏にそれがあったとしても,それを本来の議論の領域に持ち込むのは,議論に望む態度としてどうなんだ,と思う。本来の議論と批判者が承認欲求に基づいて発言していることは,問題が異なるだろう,と。

公開の場で専門領域なり得意分野なりについてモノを書く(そして書き続ける)という行為は,多かれ少なかれ「他人から認められたい」とか「自分の知識を世に知らしめたい」とかいった欲求に基づいているはずだし,そうした多数の動機に基づく知見の集積が,議論を深めているはずです。そんなそもそも論を論って批判に対応する(あるいは自分の批判を抑える)なんてのは,単に議論から離脱しているだけで,やり方としていびつだと思います。

例えば,人から「読みにくくてくだらない」と言われたら(これはこれで批判になってない気もするけれど),「どこが読みにくかったですか?」とか「どこがくだらなかったですか?」と聞けばいいじゃないか,と。なんで,せっかく芽が出た対話の機会から自ら離脱して,それとはまったく次元の異なる話者の背景(ひいては,ひとつ間違えれば間接的な人格非難になりうる人格的背景)を問題にしなくちゃいけないんだろう,と。

もちろん,ネットには多くの人が集まりすぎるために,対応できる批判に物理的な限界があるのも確かだったりします。しかし,それにしたって,話者の欲求を理由にして対話を深めることから離脱するのは,お門違いだと思うし,不適切だと思うわけです。

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