Entry

ネット文化で麻痺する欲望への感覚とか

2009年11月16日

ほとんど毎日のようにブログを更新していて言うのもなんなんですけれど,ここ数年で,欲望に対する感覚が,ネットが作り出す環境に合わせて,大きく変わったように思っていたりします。こゆもんに,どうやって対処したらいいものやら。

例えば,このサイトでも使っているけれど,本文からキーワードを拾い出して,広告なり書籍紹介なりを掲載する仕組みがありますよね。大抵間違っているんだけれども,まるで自分が欲したものかのように掲載されます。また,広告でなくても,「このブログを読んでいるあなたには,こっちのブログもおすすめ」みたいなリンクもあります。さらに実例を挙げると,こういうものもあります。

ブタゴリラの求人の図

NTT データは,ブタゴリラ系。ここまでくるとトンデモな感じが出てくるんだけれども,それでも,「ブタゴリラを調べる私は NTT データと縁があるのかもしれない」と思う人もいるかもしれません。

で,問題だと思うのは,こうした recommend engine のバカっぷりではありません。そうではなくて,こうしたユーザのクエリに対する結果を,欲望を満たすものとして受け入れてしまうユーザの感覚です。これは誰これがそうとかいった話ではなくて,ネットに関わっている人だったら,少なからず影響を受けているはず。

どんな影響なのか。もう少し具体的に言うと,こういうことになりそうです。

ネットに関わる個々のユーザの欲望が,ネットそれ自体の「手段として使われている」んじゃないだろうか。

あまり具体的にならなかったか……。逆を考えれば分かりやすいかも。あたしたち個々人は,それぞれ何かの欲望や目的をもってネットにアクセスしているし,結果としてそれを満たしているように見えます。しかし,それはそう見えるだけで,実はそうではない。つまり,話が逆で,ネットがネットとして自律する手段として,個々人の欲望なり目的なりが「利用されている」んじゃないか,ということです。

もちろん,全部が全部そうだとは思わないんですけどね。recommend engine や CGM(Consumer Generated Media)のような,自動生成される類のコンテンツを見ていると,ここら辺を強く感じます。「私」の欲望は,自ら欲するものではなく,ネットによって自動的に作られ増幅させられているのではないか,と云々。

この話を前提として,もう少しギリギリアウト気味に言うと,例えば Twitter ってありますよね。あれ,「便利なもの」とか「使えるもの」といった評価はもちろんあると思うんです。しかしこれ,かなり効率的かつ簡便に欲望を再生産するための装置にも見えるわけです。いい具合に使われてる(動員させられている)ぞ,おまいら。と,ちとけしかけてみるテスト。

ま,そんなこともあって,昨年末頃から,もう少し「かつてのインターネット」に回帰してもいいんじゃないかと思っていたりします。考えてみると,かつてのインターネットは,今のように特定のサービスが集権的に欲望を集めることはできなくて,割と散り散りに分かれていたと思うんです。こうした欲望をまとめて,ついに自律し始めているのがこの頃のインターネッツなのではないか,と,おっさんとしては思う。便利になったインターネッツに,「私」の居場所はあるのだろうか。

ま,このサイトを読んでくださっている方には,毎度のボヤキなんですが。もう少し手作りで,自分の(というかネットの外部にある)欲望なり目的なりの表現媒体として,ゆっくり使っていきたいもんなんだけれども……どんなもんなんでしょね。

Trackback
Trackback URL:
Ads
About
Search This Site
Ads
Categories
Recent Entries
Log Archive
Syndicate This Site
Info.
クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
Movable Type 3.36
Valid XHTML 1.1!
Valid CSS!
ブログタイムズ

© 2003-2012 AIAN