Entry

制度としての哲学の話とか機械論的な因果関係論の話とか

2009年11月23日

こちらの話から。

哲学を広い意味からとらえ直して教育などに生かす試みは、日本でも芽生えつつある。

東京都世田谷区では文部科学省の教育課程特例校の制度を利用して、すべての区立中学校で独自の教材を用いた哲学の授業に取り組んでいる。

宮沢賢治の詩「雨ニモマケズ」を素材に「生きること」をテーマに考えさせたり、伝統織物を知ることで自然と人間の関係を学習させたりするなど指導に工夫を凝らしている。

哲学教育 論理的な思考力を鍛えよう : 社説・コラム : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

こういう話を読んでいて,哲学ってそゆもんだったっけと,いつも思います。人が哲学と出会うとき,あるいは,人が哲学と出会わなければならなくなるときっつのは,「思考力を鍛えるため」とか「論理性を養うため」とかいった,公共の問題となりうるベタで目的的な問題領域が設定されるときではないんじゃないだろうか。もちろん,(特に)西洋の哲学にはお約束的なテーマがあるわけで,目的的な問題領域はこれらのテーマと通底しています。しかし,そうしたところに現れる哲学つのは,管理された思想だと思うし,ヘタを打つとベタな道徳教育に堕してしまう恐れがある。

あたしは,人が哲学と出会わなければならなくなるときは,「これまで当たり前に見えていた世界の根本的な拠り所がなくなるとき」で,それしかないと考えています。それがなくても生きていけるところに哲学は現れないし,仮に哲学じみたものが現れたとしても,そうした思想は茶の間の造花(お飾り)と変わらない。つまり,哲学の問題領域は,常に「個人的なもの」だと思うわけです。ま,毎度言ってることなんだけれども。

その意味で言うと,哲学教育ができることというのは,結局のところ「世界の見方を揺さぶること」しかないんじゃないだろうか。

もうひとつ,なんというか,そもそも「『論理的な思考力を鍛え』るために哲学する」という発想そのものに「○○をすれば□□の結果を得ることができる」といった機械論的(決定論的)な因果関係論が垣間見られて,なんだかなぁな感じがしてしまいます。機械論的な因果関係論と言って難しければ,単に「マニュアル主義」と呼んでもいい。

これは哲学だけでなく,全般的にあちこちの話でみられることなんだけれども,こうした因果関係論はどうにかならないもんだろうか。例えば,胎教や幼児教育にこれこれをするとこれこれの効果があるとか,安全に生活するにはこれこれすることが有効だとか,健康になるにはほげほげを食べればいいとか,ライフハックがどうとかとか……。この話を聞いて,似非科学のことを想起した向きもいるかもしれないけれども,そうではありません。問題なのは,似非科学であれモノホンの科学であれ,そうした知見を過度に目的論的に解釈/適用しようとする態度の問題です。

もちろん,この社説を読んで,「思考力を鍛えるために哲学しよう」と思った向きは,それでいいとは思うんです。しかし,そうした動機には,すでに懐疑すべき問題領域が開けていると思うわけです。問題は,その問題領域を踏まえて議論しているか,という点だと思ったり。

Trackback
Trackback URL:
Ads
About
Search This Site
Ads
Categories
Recent Entries
Log Archive
Syndicate This Site
Info.
クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
Movable Type 3.36
Valid XHTML 1.1!
Valid CSS!
ブログタイムズ

© 2003-2012 AIAN