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「○○さんだったらどう考えるだろう」と思えることが言論のミソなんでねいかと

2009年11月29日

なんとなくこちらから。

僕は、finalvent氏が運営管理する極東ブログの愛読者だったが、もう購読をやめにした。

極東ブログを購読するのをやめにした。

あたしゃ,finalvent さんのブログを読ませてもらっているので,フェアではないとは思うんですけれど,おこがましくも言わせてもらうと,finalvent さんのネットにおける存在意義は,決して小さくないと思っています。それは,氏の主張が正論だからとか,予想の類がよく当たるからとか,あるふぁなんちゃらだからとかいった理由からではありません。むしろ,氏の考え方を読ませてもらうたびに,自分と異なる考え方や価値観が流入するのを感じるくらいだし,しばしば衝突や葛藤も生じています。

それにもかかわらず,あたしが氏の発言を読み続けるのは,物事を考える上で,氏の発言がひとつの極を形成しているからです。もちろん,これはあくまでもあたしの個人的な話なわけだけれども,ネット上でその手の発言している人も,おそらくあたしと同じように葛藤を抱いたり賞賛を送ったりしているはずです。

ネットでは,昔も今も匿名/実名論議の精神論の一環で,「正々堂々と実名さらせよコラァ」な話を聞くこともあります。しかし,ネットにおけるそれに限らず,言論または言論者の存在意義つのは,発言者における責任の所在云々ではなく,こうした(知性の)極を読者個々人の内部に形成することができるか,といったところにあるんじゃないかと思っていたりします,最近。

知性の極というのは,具体的に言えば「○○さんだったらこの件についてどう考えるだろう」というときの「○○さん」と言ってもいい。社説を読むたびに,finalvent さんだったらどう考えるだろう,と思う人は少なからずいるはずです。そして,そうした自分と異質な意見やその可能性を,自分の内に抱え込むことは,より深く問題の対象に迫る契機になるはずだし,そうした場面でうまく折り合いをつける経験を踏むことが,自らの「言論の質」に反映されるはずだと思うわけ。

したがって,個人的には,ネットにおける発言者が匿名だろうが実名だろうが,実はあまり関係なかったりもします。こういう場で他人をこきおろすのもアレなので名指しはしないけれども,実名や所属を明示しているくせにロクなことを発言しない(あるいはウソを振りまく),某氏とか某氏とか某氏とかも知ってもいる。実名を出していて人気があるブロガーさんでも,あたしにとっては本当に「どうでもいい人」になっている。

そんなこんなで,引用某氏が,もし単に実名でコメントを承認制にしなかったことだけをもって読むのをやめたのであれば,それはもったいないことだと思います。おそらく,finalvent さんはこのエントリのようなクネクネ話を嫌がるだろうから,あたしゃこれ以上氏を持ち上げないし,引用某氏に無理に読めとも言いません。しかし,言論のミソが「無視できない極になっているか」といったところにあるというのは最近特に思うことだし,それが実名匿名云々の話とはまったく別の次元にあると思うこともたしかだったりします。

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