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平和の存在証明

2009年12月16日

極東ブログで言及されていた,オバマ米大統領のノーベル賞演説の話について,少し思うところをつらつら(参照:日本国憲法の平和主義とオバマ米大統領の平和思想: 極東ブログ)。あまり関係ない話になっちゃったので引用はしません。ただ,オバマ氏の平和観について,「公正」としての正義を指摘されている点についてはその通りだと思うし,日本国憲法との類似性についても指摘の通りだと思います。

一方,あたしがくだんの演説を聴いていて,ひとつ奇妙に思ったのは次の一節。朝日新聞の訳から引用します。

さて、これらの問いは新しいものではない。どんな形であれ、戦争は最初の人類とともに登場した。歴史の始まりにおいては、その道義性は問われなかった。干ばつや疾病のように、単なる事実にすぎなかった。部族、そして後には文明が、お互いに権力を追い求め、不一致を解決するための方法だった。

やがて、法によって集団内での暴力の制御が模索されるようになり、哲学者や聖職者、政治家らは戦争の破壊的な力を規制しようとした。「正しい戦争」という概念が生まれ、一定の条件が満たされる場合にのみ戦争は正当化されるとされた。つまり、最後の手段または自衛として行われ、武力の使用が(目的に)釣り合うものであり、可能な限り、民間人に暴力が及ばないように行われなければならないというものだ。

asahi.com(朝日新聞社):オバマ大統領のノーベル平和賞受賞演説全文 - 国際

事実としての暴力を統御する仕組みとして,制度的な「(正しい=公正な)戦争」という概念が生み出されたとしています。事実としての暴力は,善いとか悪いとかいった評価を何も伴わない。史的な妥当性はさておくとして,そういう系譜を想定することはできそうです。そして,この「正しい戦争」(その形式的な拠り所は国際法にあるわけだが)に基づかない戦争を悪とするのも,論理的に矛盾しないわけで,これはこれでいい。

あたしが,この一節について奇妙な非対称性を感じるのは,こうした「正しい戦争」に対する系譜ではなく,それに対置する形で提示される「平和」概念です。「事実としての暴力」は,その事実以上の評価を何も伴わないのだから,これは「事実としての平和」と言い換えることもできます。つまり,戦争や平和といった概念は,どのような条件をも指し示すし,どのような条件をも指し示さない,すなわち「無意味な」概念だということです。オバマ氏は,戦争について制度的な所産としているけれども,平和については自然権的で普遍的な性質を強調しているように見えるわけで,その点に非対称な違和感を覚えるわけです。

制度的な戦争つまり「正しい戦争」という概念が,いわゆる「正義」の一環として導入されるということは,平和もまた論理必然的に制度的な概念にならざるをえません。オバマ氏(というか西欧に端を発する思想)は,戦争概念をテクニカルに限定することで,文字通り「戦争を作った」と言えるわけだけれども,これは反対の側面から見て「平和を作った」とも言えそうです。事実,演説では,国際法を遵守する国家とそうでない国家(集団/組織)を,そのまま制度に乗っかる国家とそうでない国家(集団/組織)を明確に区別している。

平和という制度を問題にする場合,一番の問題となることは,こうした制度としての戦争や平和の存在を,制度のないところ(外部)で証明することができるのかということです。これは人権論にも関わりがあることで,あたしゃ学生の頃大いに頭を悩ませたんですけれど,結論から言うと,これを証明することは不可能だと思うわけです。

一方で,制度に乗っかる人たちが見る「忌避すべき暴力」を,それに乗っからない人に伝えることができるのか。説明/証明することができるのか。これは,戦争と平和をの大儀をめぐる最も基本的な問題だと思うわけですけれど,この点,国際法をはじめとした法的な枠組みでは,その手段としてひとつの「仕掛け」を用意しています。というか,これひとつしかない。それは,「人類の生存」という,事実のレベルでも制度のレベルでも解釈することができる概念です。

いや,「人類」にはまだテクニカルな抽象が残っている。もっと徹底するならば,「具体的な個人の生存」なんだと思います。日本国憲法において「個人の尊厳」が,平和主義を支える「原理」としてもっとも重要視されるのは,それが制度的にテクニカルな抽象を可能にする概念であるとともに,事実のレベルでも解釈可能な概念だからだと思います。少なくとも,機能的/結果的には。

くだんの演説でオバマ氏は,その「敵」が自他国民の「個人の尊厳」を蹂躙している点を強調します。しかし,これが直接武力行使の根拠として(すなわち制度的平和に基づく行動の根拠として)意味を持つためには,武力放棄か積極的介入かといった制度内における立場の違いを吸収するだけの説得力が必要だと思うし,仮にそれに成功したとしても,結局,制度的戦争/平和のフレームを超えることができません。つまるところ,オバマ氏がいかに言葉を尽くして「個人」の大切さを説いたとしても,それが仮に事実的側面を持つしても,あくまで内部の人間にだけ了解可能な制度的フレームを強調するにとどまってしまう,ということです。ここに矛盾というか,悩ましいところがある。この点で,演説では平和の持つ制度的側面と自然権的側面を上手く使い分けている。しかし,それは論理を後付けで整合させるための使い分けに見えるわけで,結局のところこの問題をごまかしたように見えるわけです。

以前,某エントリで,制度の内側と外側に横たわる絶対的(物理的)な断絶の話を書いたことがあります。このとき,両者がつながることができる唯一の接点が「暴力」だとも書いた。仮に,制度的な正義にもとづく実力を,むき出しの暴力と対置することができたとしても,そこに生まれる平和は制度的なものであり,一定の方向に意味づけられた覇権なんじゃないだろうか。ま,結論としてはありきたりになってしまったんだけれども,なんというか,課題は残されたまま,といった印象でした。

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