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メディアの暗さについてもう少し

2010年02月12日

ちょっと脈絡がないんだけれども,ここ数年思っていること。先日書いたエントリにこじつけて書いておきます。

メディアが発信するメッセージについて,実効性というか有効性というか,そういうものが定量的に測定できると仮定した場合,ほとんど,というか「まったく」実効性のないメッセージなるもんがあると思うんです。特に,児童虐待にまつわる話を聞くとそう思う。

身内に児童虐待を扱っていた人がいるから思うのだろうけれど,一般私人はもちろん専門職にしている人間ですら,児童虐待に関する態度つのは,心もとないこと限りない。驚くほど関与したがらない。もしかすると,人的/物的/心的に関与する余裕がないのかもしれないけれども,くだらない理由で虐待の端緒を逃しているところを見ると,そういうわけでもないんだろうと邪推します。身内が関わっていたのは,手続的にかなり後の方だったのだけれども,彼の元に話が来るということは,多くの場合それだけで「手遅れ」を意味していたりする。その度に,彼は「もっと早く気づかなかったのか」と歯噛みしていたわけだけれども,相変わらずこの状況は続いています。まったくもって,状況は改善していない。

そして,こうした状況に対するメディアの態度はどうかというと,決まって次の言葉が出てくるわけです。

子供に罪はない。周りの大人がサポートして。各機関が連携して……云々。

判で押したようにこればっか。ついでにいうと,アカデミズムの反応も,知ったかぶりにこういうのです。

アダチルは輸入の経緯を間違えていて……云々。

こちらは能書きばっか。こうした空疎な言論が,現実の問題に対してどれだけ実効性を持ったのだろうか。教えてもらいたい。

これだけ話のネタにされながら問題が解消しないことについて見ると,問題そのものにある種の必然性がある,という主張も予想できてしまいます。つまり,「児童虐待は社会の必要悪だ」とか言い出す連中も出てきそうな勢いだ,と。そこまではいっていないようですが。

で,ひとつ問題だと思うこととして,現在 establishment とされているメディアに,こうした「暗い部分」を扱う能力がないんじゃないか,ということがあります。先日,ネットにには暗さが必要だと言ったのは,そういう意味で,別に秘密結社のシンジケートやアングラ好きの巣窟が必要だ,とかいった意味ではありません。直視することがはばかれることというのは,つまるところ,社会的なきれいごとでは救えない対象や,万人に共有されることが難しい対象と言ってもいい。

それでは,Twitter はそういうものを救えるのだろうか。雰囲気的に無理目な感じがする(ネタにされるとしてもきれいなネタに加工される)というのが,前回エントリを通じての感想。マイノリティは,マジョリティに見られてはいけない。

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