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ゆるい正義論へ

2010年03月10日

自分が法律を勉強していたから……というわけでもないのだけれど,「ほげほげが正義だ」とか言い切ってしまう人間と同様に,「正義なんていらない」と投げ捨ててしまう人間も無責任だと思うわけで,なんだかな,とか。

そもそも,「正義とは何か」という問いについて答えることは難しい。さらにそもそも,「正義とは何か」という問い自体,可能なものなのだろうか。デリダだったら,「その問い自体が正義の内容を先取りしているじゃん」とか言うのだと思う。「ただの自問自答だべ?」と(一応参照:差延 - Wikipedia)。横浜弁のデリダ。

もっとも,仮にデリダの立場に立つとしても(あたしの場合,デリダの話にはかなり自覚的に傾倒しているところがあるんですが),問題は残るわけです。つまり,「正義は自問自答」とか「自分が-話すのを-聞く」とかいったとしても,結局,「その後どうすればいいのさ?」という問題が残ってしまう。正義に関する問いが無効になった後でも,正義そのものは成り立つのだろうか。それとも,「正義なんていらない」となるのだろうか。

例えば,こんなことを言う人がいます

正義なんて振りかざすのは小ざかしい,もっと{経済合理的|科学的|歴史的|文化的}に考えろ。

しかし,こうした話は,矛盾した言動に見えてしまう。なぜなら,その人にとって,「{経済合理的|科学的|歴史的|文化的}」なるものが,実質的に「正義」として当の規範に作用しているからです。正義の概念を否定しながら,言い回しを変えた別の正義概念を忍び込ませる手法は,安っぽいシニシストにありがちな態度。しかし,実際によって立つべきところは定立されているわけで,自覚的にやってるとしたら悪質だし,無自覚ならただのシニシストかぶれだろう。

もう少し進むと,正義は民主的な「過程」にあるとか言う人もいるかもしれない。つまり,「正義とは何か」という問いには答えられないけれど,過程を通じて現に生まれている規範から,正義(規範の正当性)の所在を逆算して推定することはできるだろう,という態度です。これは,法律解釈の基本的な態度なんだと思う。しかし,これにしたって,そうした「過程」によりどころを求める点で,「ほげほげが正義だ」ということと異ならない。非民主国家に正義はないかといったら,おそらく異なる形であるのだとも思う。ま,「そんなもんない」とか言い切っちゃう人間もたくさん知っているけれど。

で,表題に掲げた「ゆるい正義論」という話になるわけだけれども,おそらく,「正義」というのは,その場限りにおける,ものすごくアドホックな志向なのだと思ったりするわけです。ある価値について,「これが正義」と言い切ることはできないし逆算するようなことも(本当は)できない。しかし,ある人間が他人と関わりあう上で何かモノを言うためには,「正義」なるものを標榜せざるを得ない。なぜなら,「モノを言う」という作用が,そもそも寄って立つべき場を必要としているから。寄って立つべき場がない言葉は,おそらく,何の意味も持たないだろう。結局,こうしたアポリアじみたもんを抱えつつ,それでも何かの目的にしたがってモノを言い他人の言うことを聞くところに,正義なるもんが現れると思うわけ。ゆるくそこにあるけど,捕まえて取っておくことはできない。

結局ですね,言いたいのは,正義っつのはあるんだと思うけど,あまり「正義!正義!」って言いなさんな,ということ。そゆのは,大抵アポリアを抱えたもんではないから。「正義」とかいった堅苦しい言葉を使わなくても,「お前の考え方は異常だよ(正常な考え方じゃないよ)」とか「生まれ来る子孫のために」とか,「イルカ肉は食っちゃダメ」とか,似たような言葉がたくさんあるでしょ。そゆのも同じ。ま,ただそれだけ。

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