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宮崎の殺処分を簡単に倫理の問題に置き換える人と倫理問題の呪縛に苛まれる人たち

2010年05月20日

久しぶりに他人様の話に口を出してみよう。こちらから。

宮崎県の口蹄疫で牛や豚が殺処分されてる問題だけど、もともと人間が食べるために牛や豚を育て、肉の美味しくなる時期に屠殺場で殺し続けてきたことは何とも思ってない人たちが、「涙ながらに牛を殺した」とか「豚を殺した」という詭弁はやめて欲しい。

Togetter - まとめ「今日の「おまい自分が何言ってるかわかってんのか」リスト・きっこ編」

相変わらず,きっこ氏の釣りっぷりはすごいものがあるなあ……と。倫理にまつわる問題は答えが(あるようで)なかったりする。それだからこそ人が集まりやすかったりもする。心得てらっしゃる。

きっこ氏に通底する問題意識つのは,発言から読み取る限り,「資本主義的な食品流通の下に人間が消費している命が軽視されている」ということと,「資本主義的な食品流通の下にわれわれは危険な食品を消費せざるを得なくなっている」ということなんだと思います。こういった主張自体は,相当昔から言い古されているバタ臭いもので,ネタ元だけを取り上げてみると正直お題として面白くない。また,特に,今回の殺処分との関係で言うと,資本主義的な云々はまったく関係がない。かといって,新しい視点を持ち出したかというとそうでもない(古い)。結局のところ本題から外れて議論をすり替えているだけなんじゃないだろうか。

それでも内容に移ると,これは文化というか,突き詰めれば個人の問題になるんだろうけれども,畜産業に関わる人間や畜産物を消費する人間にとっての命に関する文脈と,ベジタリアンをはじめとした肉を食べない人間の命に関わる文脈はもともと異なっていたりする。きっこ氏は,自分で殺せるものだけを食べることで責任を果たすと言っているけれども,こうした自分に対する規範は,自分の中では成り立つけれども,他人を批判するよりどころにはならない。「自分で殺せるもんだったらなんで殺していいの?」とか「なんで自分が生きるために責任なんてとらなきゃいけないの?」と問われたときに,説得的な答えはないだろう。なぜなら,それはあくまでも,きっこ氏の内部で閉じた規範だから。

こうしたパーソナルでプライベートな規範を一般論に敷衍する(あるいは当然敷衍できると信じている)心性は,ただの覇権志向なのだと思います。そして,最近こうした議論が多すぎるとも思っている(参照:qune: ヒステリックにキレイゴトを連呼する連中をなんと呼べばいいのやら)。

結局のところ,かわいそうだと思う人にはかわいそうだと思わせりゃいいじゃないか,と。問題は,かわいそうだと思っている当の「かわいそう」が(プライベートな規範に照らして)適切なのか,ではなく,その人の「かわいそう」に対して「この人はどうして『かわいそう』と思うのだろう?」と慮ることなんじゃないだろうか。きっこ氏だけではないけれども,この頃見る発言の多くには,そうした思索的背景が決定的に欠けていると思う。自分が言いたいことだけ言っているとゆかね,そんな感じ。

ま,前から言ってることなので,これくらいにしておきます。なんだかなあ。

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