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大阪市のネグレクト話のこととか

2010年08月04日

某ニュース番組で某キャスターが,「最近」子供が多く殺されている,とかいったコメントをかましていて,もう唖然。たしかに,現在,幼児/児童虐待の話が多くニュースになっているけれども,これはおそらくたまたまのことだと思う。そして,幼児/児童虐待の被害者が増加傾向にあるのは,決して「最近」の話ではない。ここ数年でうなぎのぼりです(参照:厚生労働省:平成19年度社会福祉行政業務報告(福祉行政報告例)結果の概況)。

ま,この統計も読み方があるわけで,「暗数が現れた」(認知件数が増えた)とか見ることもできるのだと思います。しかし,この伸びは暗数を加味したとしても,発生件数(実際に起きている事件の数 )の伸びを推測させるものがある。

で,ですね,今度起きた事件なんですけれど,母子家庭の母親が風俗店に勤務していてホストに貢いでいたとかいった点に,批判やら同情やらがあったりするわけです。しかし,なんつか,こういう批判やら同情やらを安易にする人ってのは,どういう神経を持っているのかと思うわけですよ。今までその人が,この問題に対してどれだけ「見ないこと」にしていたのかがよく分かる。そして,どれだけその人が,自分(だけ)の志向をこの事件に投影しているかもよく分かる。非常に独善的な評価だと思うわけです。

ここで詳しくは書かないけれども,ある程度一般的な前提として,風俗嬢とホストの関係は,多くの場合,普通のお客とホストの関係とはまったく違っていたりします。そこには,非常に強固な共依存の関係がある。そして,この共依存の関係は,児童虐待と密接な関係がある(という指摘がある)。法的・倫理的な評価を抜きにして(ここは強調しておく),孤独な母親が自力でこの円環から抜け出すことが,果たして可能だっただろうか。

あたしが見る限り,安易に「良い」だの「悪い」だの「仕方ない」だのと口にしている人間は,こうした一般的な前提となる状況すら踏まえていないように見受けられます。独善的というのはそういうこと。「倫理」を語るために,人は隣人を「赤の他人」に仕立て上げる。対象と関わらない安全な場所(すなわち,対象と次元の異なる特権的な位置)に置かれると,「倫理」はますます饒舌になる。

また,仮にこうした前提を踏まえていたとしても,あたしは刑事事件を倫理的に評価することに対して躊躇を覚えます。というのも,刑事事件における個別的な事情は,突き詰めると,どこまでも「個人的な出来事」だから。倫理的共感や倫理的批判を行うには,「その事件」に対して「批判する私」や「共感する私」を差し出さない限り不可能だと思うわけです。そして,その批判や共感は,あくまでもあたしとその事件との関係の間で閉じている。

あたしはこのブログで刑事事件を取り上げることがよくあるんだけれども,そんなこともあって,基本的に倫理的な評価は行わないことにしています。そこまで責任を負えないし,書く意味もないと思う。法的な枠組みの中で,その事件がどのように評価されるのかを中心に話すことにしています。

冒頭の発言にしてもそうだけれども,児童虐待にまつわるキレイゴトは本当にひどい。当事者性なんて存在しないのに。それこそが国家的/世論的な幻想だというのに。

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