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臓器移植は「命のリレー」か

2010年08月10日

大した話ではないんですけれど,今朝の読売朝刊社会面の見出しを見て,ものすごい違和感があったので,メモ。臓器移植法改正後,初の家族承諾による移植が行われたという話です。

「命のリレー、新たな一歩…家族承諾で臓器提供」

違和感を感じたのは,「命のリレー」というこのレトリック。普通,このレトリックは,個体が再生産することで文化的/生物的なあれこれを,「次の世代に」引き継いでいくことを指しています。有名なのは中島みゆきの楽曲だろうけれども,それもそういう趣旨だと思う。

それでは,このレトリックを臓器移植に使うことができるんでしょうか。たしかに,死んだとみなされた誰かの生きている臓器を,生きている誰かの死にそうな臓器と交換することは,それ自体を見れば,リレーしているようにも見えます。死んだとみなされた誰かの生きている臓器は,生きている誰かのそれとして生き続けることになる。

しかし,脳死における臓器提供の問題として,まさに問題になっているのが,この「リレー」なるものが,リレーとして成立するのか,リレーとみなしていいのか,という問題だったはずです。つまり,「脳死は死か」という大前提となる問題に加えて,脳死と認定された人間の意思をどれだけ尊重するのか,という問題があるということ。この点,前者は法的/制度的に解決したことになっているけれども,今回の改正は,本人が脳死前にバトンを手放したくないと思っていたとしても,それが不明な場合は家族の承諾でバトンを手放させることができる,というものでした。これは,リレーとして成立しているのだろうか。

あたしゃこの場で,今回の改正について云々するつもりはないし,関係各機関が制度に則って行った今回の対応について,ケチをつけるつもりも賞賛するつもりもありません。しかし,今回の見出しは,そうした背景にある問題を一切無視する乱暴な見出しだったと思う。このレトリックひとつで,問題の焦点がすべて吹っ飛んでしまった。印象操作だとすら思います。記事も,本人の意思ではなく家族の判断に焦点があった。

ま,難癖といえば難癖なのかもしれませんけどね。それにしても違和感がある。読売に限らず報道は,微妙な問題を美辞で表現することで,焦点をぼかすことがあるけれども,こゆのには気をつけたいと思います。

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