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グレン・グールドと偽人格の話

2010年10月26日

随分前にグールドの本を読んだので,書評を書こうかと思ってたんですけれど,一般向きに書こうと思うとなかなかまとまらなかったので,トピックをかいつまんで紹介します。

グレン・グールドは語る (ちくま学芸文庫)
グレン・グールド
筑摩書房
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グレン・グールド(Glen Gould(1932 - 1982))はカナダのピアニスト。いわゆる天才の人で,クラシックにある程度通じている方にとっては,言うまでもない有名人です。

一方,彼は,録音技術に凝ってみたり,椅子の足を地面スレスレになるまで縮めて(切って)演奏してみたりと,ピアニストとしては少し変わった芸風を持っていたりもします。そっちで有名なところもあるんですが。

それだけではなく,グールドは自分の演奏について架空の別人になりすまして評釈することでも有名でした。例えば,ロックのピアノを弾いているシオドア・スロッツとか,カラヤンちっくな引退した識者であるフォン・ホッホマイスターとかいった具合。こうした,偽りの人格をどのような経緯で立ち上げたのか,そのくだりが面白かったので紹介します。

私たちの価値判断の大半はアイデンティティの意識と関係があるという事実を私は非常に興味深く受け止めています。つまり、一個の芸術作品があって、それを作ったのが誰にせよ、作者特定できないとき、価値判断を下すことをひどく恐れる傾向が私たちにはあるのです。これは実に面白い発想だと思います。

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よい小説家とはペンネームを必要としない人だという古い格言も確かにありますが、真面目な話、私ははっきりこう確信しているのです。すなわち、自分の人格のある部分は、特定の生き方や特定の名前が決める構造の中でこそ効果的に機能するのだと。また、人格の別の部分は、これらの要素を変化させない限り、最良の機能を果たさないかもしれないのです。

『グレン・グールドは語る』(グレン・グールド,ジョナサン・コット,宮澤 淳一(訳),筑摩書房,2010年,pp99-100)

身近な話として,ネットでは偽名と本名のどちらを名乗る(あるいはまったく名乗らない)のがいいのか,とかいった話があります。そこらの知識人のヒトも巻き込んで,もうさんざっぱら議論されているけれども,ま,そんな話がある。「名乗ることと責任」とかいったショッパイ話は抜きにして,その他に議論することがあるとしたら,上記引用のような話,つまり,「コンテンツはと表現物とその作者(の人格/アイデンティティ)の関係は不可分なのかそれとも可分なのか」という話だと思うんですね。

あたしはかつて,表現物と人格は可分なもので,コンテンツを評価する場合は純粋に表現物のみを対象にすべきだ,とか言っていました。他にそう主張する人も少なくない。説明的な文章については特にそう思っているし,グールドが引用で対象としている芸術作品についてもある程度当てはまると思っています。

一方,本文でグールドは,芸術作品に対峙し「作者特定できないとき、価値判断を下すことをひどく恐れる傾向」が私たちにある,と指摘しています。また,表現内容そのものも人格と結びついていて,特定の名前や生き方が決める構造の中で,その効果を発揮する場合とそうでない場合があるとしています。この考え方は,ある点において,あたしの考え方の真逆にあるもので,非常に興味深い。

コンテンツを構成する上において,表現物とその作者が可分であるかといった話は,おそらくあたしの考え方が「べき論」なのに対して,グールドは実際のところを指摘しているように思えます。現にグールドは,私たちが「名乗らないことを恐れること」を利用して,いくつものユーモアを発明しています。

コンテンツを構成する上において,表現物とその作者が可分であるかといった話は,おそらくあたしの考え方が「べき論」なのに対して,グールドは実際のところを指摘している点で違いがあるように思えます。現にグールドは,私たちが「名乗らないことを恐れること」を利用して,いくつものユーモアを発明している。純粋に言論ないし芸術作品が,それ自体として説得力なり芸術性なりを帯びているとするならば,こうしたユーモアはそもそも成立しません。

また,こうも考えられます。

表現物をその作者から切り離す作業というか運動というか,そういったものは,ある意味で時代的・歴史的な政治運動としての側面があるんじゃないか,ということ。あたしゃ,ここら辺について少し自覚的に発言していたところがあるんですけれど,実際,多くの鑑賞者が名前に引きずられてコンテンツを評価する事実があるとしても,ネット文化が成立するための土壌として表現物を作者から切り離すことは必須の要件だと思っていたりするわけです。そうでなければ,有名な人がますます有名になるばかりで,(世間に通用する)名を持たない人間のコンテンツが正当に認識されないと思うから。

一般の人が発言力を持っても不思議でなくなった2010年の今になって,こんなことを言うのも時代錯誤も甚だしいわけですけれど,2004年前後の頃は,「名前から自由になる」といった意味での自由主義的風潮(うまい表現が見つからないが)が確かにあったと思うんですね。グールドの指摘が正しいとしても,複製時代の世の中では必然だったんじゃないかと思ったりします。

ま,グールドの話から逸れまくっちゃったけれども,そんな感じ。

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