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自粛ムードというリアリティについて

2011年04月16日

今月に入って,「自粛ムード」なる言葉がなんとなく出回り始めたわけだけれども,なんつか,ようやくその奇妙さが認識されるようになったのかな,と思う。

災害に対して,エクスキューズが蔓延しはじめたのは,つい最近の話ではなく,震災が起きた当初からありました。このサイトでも,震災6日目でその話を書いている。

なんといっても,この場でさえ,「誤解を恐れず」とかいったエクスキューズを入れなくちゃいけないお約束がある点(つまり,「不謹慎だ」との批判を恐れなくてはいけない点)において,なんだか,この出来事は人工的・社会的・文化的に練り上げられたモノのようにも思える。

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ご存知の通り,現在民放では AC(公共広告機構)の CM が異常な回数流れているわけだけれども,これも一般スポンサーのエクスキューズから新たに生まれた風習だったりする。かくして,「災害」という社会事象は作られ,「災害」という文化は醸成される。

qune: 激甚災害日誌6日目 - 特になし

最近では,酒飲んでちょっと羽目を外しただけで,批判の対象になるという(下記参照)。こんな話,普段ニュースにはならない。何に対して批判しているのか,もはや分からなくなってるわけで,異常としか言いようがない。一方,ネットの反応はおおむね二分している感じ。

岡山県が今月、福島県会津美里町の避難所に派遣した岡山県美咲町の形井(かたい)圓(まどか)副町長と町職員らが、炊き出しの後、地元ラーメン店で酒を飲み、女性店員に「お姉さん、こっちに来れば」「刺し身はないのか」などと、配慮を欠く言動をしていたことが分かった。

炊き出しの後に反省会…酔って脱線した副町長 : 社会 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

この点,「自粛ムードは経済の停滞を招くからよくない」な話もあるんだけれども,経済云々以前に,社会現象そのものを見るだけでも病理的なものを感じてしまいます。なんというか,この国の人(に限るのかは分からないが)は,なんらかの異変があると,国家的/集団的な幻想にリアリティを求める習性があるように思えるわけで,それは以前からも感じていたことだったのでした。関連するエントリを挙げておきます。

想像するに,ヒステリックにキレイゴトに乗っかる連中ってのは,ひとつに「国家的/集団的幻想に重きを置いていて」,さらにひとつに「そうした幻想の権威性を(ほぼ)限界のないものとして位置づけている」と言えるんじゃないだろうか。国家的/集団的幻想というのは,国粋的ということではなく,世論主義的というか集合愚的というか,そんな意味合い。

qune: ヒステリックにキレイゴトを連呼する連中をなんと呼べばいいのやら

つまり,異変の衝撃に対する緩衝として,集団的な幻想に逃げ込んでいるように見える,と。主観的な話にとどまっているから,まだ,「印象」の域を出ないのだけれども。例えば,日本のメディアで,死亡した方の様子を報道しないのを見ていると(もちろんこれは報道倫理的な議論を踏まえた結果なのだろうけれど),なんというか,本当に本物の生々しい「災害」なるものは見たくなくて,自分たちが見たい(集団的に受け入れられる範囲における)作られた災害像の元で生活したい,といった願望が現われているのではないだろうか,とか。

自粛ムードは,一般的な礼儀を超えて,集団の集団性を維持するための装置になっている感じがする。そのためには,些細な礼儀違反も許されない。その意味で,この国はひどく内向きになっている感じがします。構成員(≒国民)も自分自身に対して内向きになっている気がする。

ま,だからなんだというわけでもないんですけどね。そう思っただけ。

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