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Twitter や SBM の需要に対するもうひとつの解釈とか

2011年06月01日

Twitter や SBM が利用される背景に,「長めの文章を書く必要がなく,手軽にネットに参加できるから」といった話があります。もちろん,そゆ側面は大いにあると思うんだけれども,もうひとつの解釈とか。「もうひとつ」といっても,このサイトでは随分前に話してたことなんですけど,ま,リバイバルということで。

以前引用した,「箱男」の解説から。

見られずに見ること。誰のなかにもいくらかはあるこの欲求が昂じて、この小説の主人公は(snip)、ついに箱男となったのである。(snip)

箱男とは果敢にいっさいの帰属を捨て、一方的にコミュニケーションを断ち切り、ひとりで生きることを選んだ人種なのだ。そんな大それた企てが容易で安穏であるわけがない。食料の入手が困難になるといった、物質的な困難だけを言っているのではない。市民社会の側から見て、許しがたい越権行為であるから、なんらかの迫害の手が及ぶことは避けられない。(snip)

箱男となることによって、覗き屋は認識者へと変貌するのである。箱男となることによって、彼ははじめて自由な「ぼく」となる。

「解説」(平岡篤頼,『箱男』,新潮文庫,p213)

そして,自由な認識者になった僕はどうなるのか。ササキバラ・ゴウ氏の話。

「視線化する私」という欲望は、おたく的な問題にとどまらずに、現在の日本に広く作用している。

自らの暴力性を忘却し、他者を「傷つかないキャラクター」として扱い、自らは超越的な認識者として自閉していくこと。そのようなありさまは、あちこちに見ることができる。

たとえば、加害者であった自分を忘れて、被害者という立場に自閉することで、他者を加害者として一方的に責め立てる時、その他者が傷つく存在であることは忘れ去られる。そのようにして、自身の優越性の中に自閉して生きていく様は、まさしく現在の日本の空気そのものなのだ。

「おたくのロマンティシズムと転向 ―― 『視線化する私』の暴力の行方」(ササキバラ・ゴウ,『新現実』 Vol.3,p150)

Twitter や SBM は「見られる」(認識される,記述される,対象化される)ために必要なだけの表現能力を十分には持っていない。それはひとえに表現できる文字数に制限があるからなのだけれども,これは必ずしも利用者にとっての「制限」ではなく,むしろ一面において,表現できる文字数が少ないからこそ選ばれているところがある。それはつまり,「見られずに見る」ための文字数であり,「覗かれずに覗く」ための文字数であり,「傷つかずに傷つける」ための文字数だから。もちろん,すべてがそのためだけに使われているわけじゃないけれども。

ぼくは自分の醜さをよく心得ている。ぬけぬけと他人の前で裸をさらけ出すほど、あつかましくはない。もっとも、醜いのはなにもぼくだけではなく、人間の九十九パーセントまでが出来損ないなのだ。(snip)それでも人々が、なんとか他人の視線に耐えて生きていけるのは、人間の眼の不正確さと、錯覚に期待するからなのだ。(snip)誰だって、見られるよりは、見たいのだ。ラジオやテレビなどという覗き道具が、際限もなく売れつづけているのも、人類の九十九パーセントが、自分の醜さを自覚していることのいい証拠だろう。ぼくがすすんで近視眼になり、ストリップ小屋に通いつめ、写真家に弟子入りし……そして、そこから箱男までは、ごく自然な一と跨ぎにすぎなかった。

《書いているぼくと 書かれているぼくとの不機嫌な関係をめぐって》(安部公房,『箱男』,新潮文庫,p104)

Twitter や SBM の人が箱男と違うのは,記述されることがまったくないわけではなく,「認識しづらい」だけ,とゆことです。目を凝らしてよく見ると見える。見えるということは記述可能とゆことなわけで,視線を送ることもできる。「見られずに見ている」と勘違いしている向きは,視線を送ると大抵狼狽するけれど,都合のいい透明人間(超越的な存在)には普通なれません。

箱男は,たしか最後死体として「記述された」んだっけ。よく覚えてないけれど。

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