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みなし子の国

2011年06月19日

随分前の話なんですけれど,読売新聞4月21日の編集手帳で,次のような歌が紹介されていました。

顔見せぬ菅宰相は悲しけれ1億2000万人のみなし子

作者は俳人の長谷川櫂氏。管首相が福島を訪問しなかったことを詠んだ歌です。

この歌についてしばらく考えているんだけれども,被災者をはじめとした国民を「みなし子」と表現するのには,字面以上に根の深い国家観とか社会観に基づいているんじゃないだろうか,とかつらつら。この歌に感慨なり共感を得ている向きには,失礼な話になるだろうけれども,あたしはこの歌にちっとも共感しなかった。というのもこの歌には,なんというか,無責任な国民性が露骨に表れていると思うからです。

脊髄反射する方がいると困るので,念のためにエクスキューズを入れておくと,以下の文章で,あたしは,今回直接または間接に被災されている方々を「無責任」と名指しているわけではありません。また,原発の賛否についても(少なくともこの場では)留保した立場で書いています。

話を戻すと,いうまでもなくこの歌にいわゆる「みなし子」は被災者をはじめとした日本の国民を指しています(本当は外国人も被災しているんだが)。問題は,その親。これも改めて書くまでもなく,具体的には管首相を指している。しかし,親の方はもう少し抽象的に,為政者一般を指していると言っていい。管首相が親になったのは,「管氏」だからではなく「首相」だからです。この作者は,為政者としての親を求めている。

Wikipedia によると,作者の長谷川櫂氏は1954年の生まれなので,中心からは少し外れるものの,広い意味では団塊世代に入ります。なので,日本国民が露骨に赤子(せきし)と呼ばれていた時代を直接経験している世代ではなく(※赤子の意味自体は孟子なので,この時代に特有の言葉ではない),また為政者を頂点とする家父長的な価値観も比較的後退した頃の人です。そこで,首相を「親」呼ばわりするのは,どういった経緯があるのだろう。この点がずっと引っかかっていたのでした。首相は首相であって親ではない(と,あたしは思う)。

おそらく,というか,ほぼ確実に言えることとして,この歌が生まれるような土壌,つまり為政者を「親」とみなす思想というか定型的な観念は,無意識であれ意識してであれ現在もかなり大きな規模で存在するということです。その意味で言うなら,日本は戦争に敗れてからずっとみなし子の国だった。特に,為政者がコロコロと変わったここ十数年はそう。

あたしは,こうした観念が存在することについては,勝手にしやがれと思っているんですけれど,時々こうした観念に基づく要求が,駄々っ子の不条理な要求に見えることがあります。面倒なことは親にまかせ,まかせたくせに,その親ができないときは「みなし子だ……オレ達」的な恨み節を吐く。こうした観念は,現在,「リーダーシップ」だの「強い指導力」だのといった現代的な言い回しに変わっているけれども,根元をたどると結局同じモノ(父性)を求めているだけなんじゃないだろうか。この国は,「親らしい親」を求め続けている。特に,父親を求めている。自分が選んだ政治(原発を推進したのはどの親で,誰が選んだのか)に対して振り返ることはせず,「とりあえず今」をなんとかしてくれる次の「新しい親」を求めている。

6月に入って,今の親は「死に体」らしいけれども,新しい親候補を見る限り,何をするのか(政策)も分からなければ,政治的にどういった大儀でもって変わるのかも分からない。みんな内心では分かっているんはずなんですけどね。与党のあの人であれ野党のその人であれ,どんな親になったところで,この問題を簡単に片付けられる人はいないということ。そして,この問題を一挙に片付ける銀の弾丸も存在しないということ。でも,ともかく,今の親はダメな親らしい。

そろそろ,すねかじりはやめたらどうかとも思うんだけれども,深く根ざした心性だし,やめるにやめられないのかもしれない。リバタリアンとかリベラリズムとか,大きな国家とか小さな国家とかいう以前の前提として,為政者観(それは現在日本の国民自身という建前なのだが)に独特のものがあるんでねいか,とつらつら。ま,ただそれだけなんですが。

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