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共感のコミュニケーションとネット作法について

2011年11月13日

ネット上のコミュニケーションをここ数年見ているわけだけれども,そもそもネット上の作法は,参加している年代によってかなり異なっているんだろうな,とかつらつら。ちょっと考えれば当たり前なんだけれども。

発達心理学の領域を見ると,ホフマンは,コミュニケーションにおける共感の発達段階として,自己中心的な共感から相対的に相手の立場に共感する段階に進むとしています。これがまさに思うところで,ネット上のコミュニケーションも,各段階に応じたコミュニケーションのあり方があるんでないか,とか云々。

マーチン・ホフマンによれば、幼児期における共感の発達段階として、自己を投影して相手も同じことを感じているであろうとする段階(いわば自己中心的な共感であり、ヒトや場合によって状況が異なる可能性を考えない)を経て、やがて自分の境遇とは異なる相手の様子を推し量る段階にも達するとしている。

共感 - Wikipedia

自己中心的な共感というのは,例えば,人形と一緒にいる自分は楽しいから,同じ人形を相手に渡すと相手も楽しいはずだとかいったもの。相手に自分を投影(同一視)することで共感を作るとゆことです。一方で,相対的に相手の立場に共感するというのは,(自分はそんなに好きではないけれど)○○君はカレーが好きだから,カレーを作ってあげよう,のように,相手の立場に対して共感することです。こちらの方が,共感の目的に対する抽象性が高いことから,テクニカルで高度な共感だったりする。

もうひとつ。相手に自分を投影して自己満足的な共感を得る段階から,相手の立場を推し量った共感に進むには,「自分と他人は違う」と認識する段階を経る必要があるはずです。これは Wiki の説明になく,またそれっぽい文献を読んだわけでもないので,あたしの考え。あたしの考えなんですけれど,相手と自分が違うこと(つまり,自分は他人ではなく自分であること)を認識できなければ,推し量る相手が自分と異なることと整合性が取れないので,論理的に必然なんじゃないかと思います。

で,思うんだけれども,「自分は他人でなく自分であること」を認識し確認するには,自分と他人との間に何かしらの尺度が必要なんじゃないかと思うわけです。例えば,音楽の趣味であるとか,顔がいけてるかとか,勉強ができるかとか。純粋に客観的でなくても,何かしらの形で記述可能な尺度が要るはずです。この尺度を基準にして,自分と他人を分けるんだと思うんですね。で,普通の自己愛を持っている人は,自分を肯定的に評価するように,尺度を設定する。思春期の自己主張みたいなもんは,ここら辺にあるんでねいか,とか云々。

さらに,相手の立場を推し量るには,他人に対する自分の評価や尺度と,他人の自分に対する評価と尺度の折り合いをつける必要がある。自分が他人を一定の尺度で区別するのと同時に,相手も自分と他人を区別している。相互の受容があって,はじめて他人を受け入れる準備が整うんじゃないかと思うわけです。

で,前置きが長くなったけれども,コミュニケーションについて。

なんというか,ネットを見ていると,自分と他人を同一視して共感のみを求めるコミュニケーションと,他人を排除して自分の尺度を前面に押し出すコミュニケーション,そして,相互に受容して(他人を自分と異なる他人として)行うコミュニケーションが,大きく分けて存在している気がしています。

例えば,なんとか小町なんかは,ほとんど原初的な共感だけで成り立っているように見える。私が考えていることはあなたも同じはず。あなたが考えていることは,私も同様に考えている。私が悲しいことは,あなたも悲しいこと。そうでない人はお断りです……のようなコミュニケーション。

自分の尺度のみのホゲホゲは,言わずもがなのなんとか病的な話なので,ま,いろいろ。

一方,相互に相手の立場を推し量ってするコミュニケーションは,実のところあちこちにある。しかし,このコミュニケーションは,前二者と比べると非常にコストが高くつきます。普通は,友達でも家族でもない他人のことを熱心に推し量ることなんて,時間的にも心の余裕的にもできません。で,こゆ時のために,世の中には便利な「社交辞令」やマナーがある。社会人のコミュニケーション(なのか?)。

ネット上のコミュニケーションは,どうも上手い具合にできているようで,同じような発達段階にある人が同じように集まるようにできているように見える。異なる段階にいる人が入ると軋轢が生じるから,自然とそうなるのかもしれないし,変な引力みたいなものがあるのかもしれない。

ネット上のコミュニケーションで違和感を感じたら,どういう人たちがいるトコロなのか,見てみるのもいいかもしれない。あたしゃ心理学の専門家ではないし,こんなに単純にコミュニケーションを分類できるわけではないんだろうけれども,なんとなく思いついた仮定にすっぽり当てはまってしまったので書いてみました。もしかしたら,こんな風に,意外と単純にできているのかもしれない。

ちなみに,コミュニケーション論でなく道徳規範の話において,カントは自分と他人を同一視して規範を定立することは誤りだと言っていたりする(『道徳形而上学原論』)。例えば,「自分がされて嫌なことは相手にしない」とゆ規範は誤りとゆこと。コミュニケーションと道徳規範は重なるところがありそうだけれど,どうなんだろう。

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