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「私」という問いは本質的にヒューリスティックという話

2011年12月13日

なんというか,とある人と話していて思ったのだけれども,なんでこう一般解を求めたがるのだろう,と思うことがあります。

他人とどう付き合えばいいか,とか,就職活動/結婚活動ではどのように振舞うべきか,とか,子どもを良い子に育てるにはどうすればいいか,とか,勉強できるようになるにはどうすればいいか,とか,きれいな文章を書くにはどうすればいいか,とか,モテるにはどうすればいいか,とか,私はどうすれば幸せになれるのか,とか,そもそも私は何者なのか,とかとかとかとか……。

おそらく,これらの問いに答えはあるのだと思う。しかも,一般解があるのだと思う。全ての場合に最適な振る舞いなり作法なりが当てはまる一般解。

しかし,一方でそれは,演繹的に考えると非常に効率が悪い種類の問いなのだと思う。自分でやってみた結果,そこから得られる成功体験や失敗体験からヒューリスティックに導き出す方が効率がいいのだと思う。

また,問いに対する答えが演繹的に導き出せたとして,その答えが「私」にとって解読可能/理解可能なのか,という重大な問題がある。さらに,その答えを導き出す前の「私」は,答えを知った「私」と同一性があるのか,という問題もある。その答えは,答えを知らない「私」に当てはまったことで,答えを知ってしまった「私」は別物なのではないか。そうだとするなら,その時点における「私」の最適解なり一般解なりは,また別のところにあることになってしまう。こうして,私をめぐる問いは,無限に続くことになる。

結局,一般解を求めるのは,近道のようでとても遠回りのように思える。

少し話は変わって,汎用ライブラリを作っているときに陥りがちな失敗に,「何のためのライブラリなのか見失う」というもんがあったりします。最適なプログラムを作るための一般的なライブラリを求めていたら,結局何も作れなかったという失敗です。C++ 的に言うなら,「テンプレートから抜けられない」といったところか。そゆのに似てる気がする。

もう少し,具体的に考えてみたらどうなんだろうと思う。相談されても,「しらねーよ!そんなこと」としか言えないし。

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