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受動意識仮説についてつらつら

2012年01月04日

ちょっと受動意識仮説について調べていたのだけれども,たまたま弾さんの話を読ませていただいたのでつらつら。引用で扱っている書籍も読んだことがあるのだけれども,おおむねあたしも同じような感想です。ここでは,特に言いたいことも決めずにつらつら。

この受動意識仮説を支持する研究成果に関しては、本書の参考図書の一つでもある「進化しすぎた脳」もあわせて呼んでいただくとして、とりあえずここでは受動意識仮説が正しいものと仮定しよう。

すると、どうなるのか。

「私」は、不要となるのである。

「我思う故に我あり」ではなく、「我あり故に我思う」のであれば、「思う我」は不要というよりも「ある我」があれば自然発生するというわけだ。

404 Blog Not Found:書評 - 脳の中の「私」はなぜ見つからないのか?

受動意識仮説とコギト(cogito, ergo sum)の話。本にそう書かれていたから結びつけたのだと思うのだけれども,こゆのは極めて自己言及的な話だと思うんですね。後に及ぶ刑法の要否についてもそうだけれども,思想は既にこの道を通っている。刑事法学で言うなら,19世紀の終わりくらいからロンブローゾがそんなこと言ってる。ロンブローゾはダーウィニズムに立脚しているけれども,受動意識仮説もダーウィニズムの影響を受けているといっても言い過ぎじゃないと思う。

もう少し考えると,デカルトのコギト(考える我)は,二元論につながるわけだけれども,その前に意味するところは懐疑論との関係で「考えている私の実在は考えていることにのみ依存しているから,それ自体で存在しうる」とゆことだったのでした。で,これが受動意識仮説における「意思」と「行為」の前後関係とどういう関係にあるのか。ここに精緻な論証が必要だと思うんですね。個人的な理解では,コギトはコギトとして何にも依存せず存在しているのだから,(それに意味があるかはともかく)身体的な行為が前後しても影響を受けないと思うんだけれど,どうなんだろ。

ともあれ,こゆのは自己言及的な話だから,あまりいろんなとこに敷衍しない方がいいのだと思う。

自己言及的とゆのは,その答えを既に内包した形で問いを立てているということです。これらの説を受け入れる(あるいは反論する)ということは,その問いと答えの関係性に加担するということだ,と言い換えてもいい。受動意識仮説であれコギトであれ,こうした話の自己言及的な態度について,「読む人」は少なくとも自覚的である必要があるのだと思う。

受動意識仮説は,ロボットを作るための心のモデルを先取りして,後から問いの形を整えた感がある仮説だと思っていたりします。まるで,この仮説のように,答えが問いを作るかのような運動です。そうじゃないならごめんなさいだけど,そうかどうかは誰もわからなかったりする。心と同じように。

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