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憲法論議はもう少しロマンティックであっていいと思う

2012年05月04日

憲法記念日の読売社説を読んでいて云々。

だが、憲法改正で一院制を実現するのは、困難である。二院制は維持しつつ、衆参の役割分担を工夫することの方が現実的だ。

憲法記念日 改正論議で国家観が問われる : 社説・コラム : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

読売は何度か憲法試案を出しているんだけれども,立ち位置が「昔ながらの保守」から変わらないもんで,なんか古びた爺さんの話を聞いてる気分になってくる。保守の話では,「憲法が現実に即さなくなった」なんて言ってるけれども,この話自体,何年も前から言ってるわけで,どんだけの昔を現実と言ってるんだとか思えてきます。保守の「現実論」なるものがすでに現実から離れているんじゃないだろうかとすら思えてくる。

その一方で,引用の通り,一院制を導入するのはなぜか現実的でないという。理由がないけれども,なんでなのか教えて欲しい。そんなもん,憲法と国会法をはじめとした関連法を整備すればすぐできることだろう(といっても数年のオーダーだろうが)。

このサイトでは以前書いたけれども,議論を深めるどころか,政局がらみの意思決定に利用されている現状の参議院は要らないと思う。現代の政治における対立構造は政党間にあるのであって,身分的な対立構造は主たる軸になっていない。同じ政党の対立構造が衆参に展開されたところで,実際やることは同じなわけで,それこそ,現実の政治に憲法が追いついていない。

そもそも,憲法論議に「現実論」を持ち出すのは,野暮といえば野暮だったりする。憲法は大部分,その国が行き着く先としての理想を定義するものであって,その意味で言えばロマンティックなものなのだと思います。そこには,その当時における政治的理想が(全てとは言わないまでも)語られなくてはいけない。

憲法における現実論は,憲法論議そのものが,自身の理想を表明せず,現状を追認=記述する手段に成り下がっていることなのだと思う。もちろん,保守の現実論には,ホンネとしての理想論があるわけなんだけれども,結局それは現状追認(現実論=なし崩し論)という形式で行われている。こゆやり方は,ある意味ショボい手法だと思うし,これほどひた隠しにしないと主張できないような理想論なるものにもトホホ感がある。堂々と主張すればいいのに,何におびえているのだろうか。

なんつか,この季節になると,古びた爺さんの凝り固まった隠喩含みの現実論を聞かされて,もう飽き飽きだと思うわけです。

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